【書評】教育界・実業界の風雲児
 解説:本房 歩(ライター)

『評伝 戸田城聖(上)』(「創価教育の源流」編纂委員会 編)

淵源としての創価教育

 牧口常三郎、戸田城聖、池田大作という創価学会の三代の指導者は、今や世界宗教として広がる創価学会の指導者であると同時に、やはり世界に共感を広げゆく「創価教育」の指導者でもある。
 創価学会は牧口常三郎の「創価教育」を研究実践する「創価教育学会」という教育者の団体から出発した。
 一般的には、特定の宗教や宗派の信仰が先にあって、その教理を土台に教育機関がつくられるケースがほとんどだろう。教団の聖職者を養成する学校から発展した大学も多い。
 ところが創価学会の場合は、ある意味で先に「創価教育」という、あくまでも普遍的な特定の信仰に縛られない教育理念の実践があって、そこから日蓮仏法にもとづく宗教運動へと収斂(しゅうれん)したといえるのかもしれない。
 牧口常三郎も戸田城聖も、卓越した教育者であった。
 今年の箱根駅伝で脚光を浴びた創価大学など国内外の創価教育の機関は、池田会長を創立者としながらも、いわゆる礼拝の時間もなければ宗教教育もおこなっていない。リベラルアーツ・カレッジとして全米ランキング50位以内を定位置にするアメリカ創価大学にいたっては、学生の過半数が非仏教徒である。
 そして、各国の名だたる大学・学術機関が池田会長を講演に招き、400近い名誉学術称号を授与している事実は、世界の教育・学術界が創価学会と創価教育、その三代の指導者をどう見ているかを端的に示している。
 創価学会が今や人類の宗教間対話における重要なファシリテーター(推進役)になりつつあるのも、その淵源に教育という普遍性があることと無関係ではない。

厚田村で育まれた精神

 本書『評伝 戸田城聖(上)』は月刊誌『第三文明』に連載された「創価教育の源流 第二部」のうち、戸田城聖の少年期・青年期、牧口との出会いから別れまでを収録した評伝だ。
 戦後、戸田が学会の再建に立ち上がり、第2代会長となってから没するまでの歩みは、聖教新聞など刊行物のほか、とりわけ池田会長の尽力によって丹念に記録され語られている。
 それに比べると、生誕から終戦間際の出獄までの時間は、戸田の人生の4分の3の歳月を占めながら情報量が少なく、資料も乏しかった。
 戸田と牧口が創価教育学会を創立し、教育者・実業家としての戸田がその真骨頂を発揮したのは、この前半生である。それは、日本がナショナリズムを暴走させ、国民を思想統制して戦争へと駆り立てていった時代と重なる。

 牧口・戸田・池田と続く流れをより深く理解していただくために、各章末にコラムを配している。
 執筆にあたっては、可能な限り実証的に記述して、注や参考資料は煩瑣(はんさ)をいとわずできるだけ詳細に掲載した。(はじめに)

 戸田は1900年2月11日に石川県塩屋村(現在の加賀市塩屋町)に生まれ、幼い時期に一家は北海道の厚田村(現在の石狩市厚田区)に移っている。
 その時期についても本書では、北前船の仕事に従事していた父・甚七が、寄港地である厚田村に寄留して1903年には家を購入していることや、城聖(幼名は甚一)自身が厚田に渡ったのは数え年5歳(1904年)としていることから特定している。
 この厚田の地が開明的で自由な精神と文学的気風に富んでいたことは、少年期の戸田の人格形成に大きな影響を与えた。
 3代の池田会長は月が好きで、とくに1970年代はしばしば月を被写体にカメラを構えてきた。
 じつは戸田も月が好きだったのである。

 戸田は、月が好きだった。(第1章)

 本書には10代後半に戸田が同人誌に投稿した、月を語った和歌や散文も紹介されている。

戸田と牧口の出会い

 時期の特定に関して、もう一つ興味深いもの。それは、戸田城聖がはじめて牧口常三郎と出会った時期について、近年の研究によって明らかになった点である。
 北海道・真谷地小学校で教員をしていた戸田は、青雲の志を抱き、また大学進学という具体的な目標をもって上京することを決心する。
 この頃、牧口常三郎は東京市の小学校長のなかで、数少ない北海道出身者であった。
 牧口は彼を疎んじた有力者のさしがねで、1919年12月に大正尋常小学校から西町尋常小学校に「左遷」されている。
 その直後に、戸田は紹介状を持って牧口の自宅を訪問し、自分を教員として採用してほしいと懇請した。

 二人の出会いの時期は、同じ頃に牧口校長の面接を受けた窪田正隆の手記と彼が二月三日に弟敏夫に出した手紙によって、「一月」と推測することができる。(第2章)

 戸田自身が生前、数え年の習慣で「20歳」と語っていたこともあり、これまでこの時期には諸説があった。
 だが新たな資料によって時期が絞られた。すなわち、1920年1月であり、2月生まれの戸田はまだ19歳だった。戸田と牧口の出会いがなければ、今日の創価学会は存在していない。
 のちに創価の師弟となる2人が出会って、この2020年1月でちょうど100年を迎えた。
 なお、牧口の遺志を継いだ戸田城聖が、不二の弟子となる池田大作とはじめて出会ったとき、池田もまた19歳であった。

17社の経営に関与する

 本書の後半では実業家としての戸田の姿も詳細に描かれている。
 戸田は早くに時習学館を経営し、日本小学館を設立して学習参考書の出版で成功を収めていた。
 さらに1939年には秀英社、40年には日本商手株式会社のほか、大道書房を設立。下母沢寛、佐藤春夫、大衆文学界の大御所であった長谷川伸、銭形平次捕物控で有名な野村胡堂らの著作を、短日月のうちに精力的に刊行した。
 41年4月には実業界の会員制社交クラブ「交詢社」のメンバーになっている。
 同時期、戸田は次々と会社を設立し、また経営に参画し、42年には東京株式取引所に参入した。

 一九四三年になると、戸田は十七社の経営に関与しており、資産は六百万円と思われ、年収は三十~四十万ほどであるとされている。(第4章)

 ちなみに1943年当時の600万円は、日銀の企業物価指数で換算すると今日の約20億円に相当するという。
 この時期に戸田が実業界に進出した理由は何だったのか。

 そこには、創価教育学会の活動を支え、牧口の構想を実現するためには、財政基盤の確立が欠かせないとの考えがあったのではなかろうか。(第3章)

 戸田城聖は教育者としても出版人としても、すぐれた独創性と時代を読む力をそなえていた。師である牧口を支えるために発揮された戸田の才覚と経験値は、そのまま戦後の学会再建において大きな力となった。
 だが実業家として力量を発揮しつつあった最中の1943年7月6日に、戸田は思想犯として警視庁に逮捕され投獄されるのである。


『評伝 戸田城聖(上)』
『評伝 戸田城聖(上)』
「創価教育の源流」編纂委員会 編
第三文明社
税抜価格 1,600円
発売日 2019年12月6日