芥川賞を読む 第49回 『きことわ』朝吹真理子

文筆家
水上修一

記憶を行き来する中で霞む存在の危うさ

朝吹真理子(あさぶき・まりこ)著/第144回芥川賞受賞作(2010年下半期)

多くの選考委員がその才能を評価

 前回取り上げた「苦役列車」とダブル受賞となったのが、朝吹真理子の「きことわ」だった。当時26歳。詩人で慶応大学教授の朝吹亮二の娘であり、フランソワーズ・サガンの翻訳を多く手がけた朝吹登水子を大叔母に持つという、いわばサラブレッドということもあって、受賞前から多くの関心を集めたようである。実際、選考会では少しの難点を指摘する声を除いて、多くの選考委員がその才能を高く評価している。

 主人公は永遠子(とわこ)と貴子(きこ)。初めての出会いは永遠子が15歳、貴子が8歳。貴子の両親が所有する葉山の別荘を管理していたのが逗子に住む永遠子の母親。その関係で、毎年夏になると2人は、その別荘でまるで本当の姉妹のように遊ぶのだった。
 やがて、貴子の家族が別荘に来ることがなくなって以降、2人は会うことも連絡を取り合うこともなくなり、再会したのが、その別荘を取り壊すことになった25年後のこと。永遠子も貴子もすでに大人になっていた。 続きを読む

書評『見えない日常』――写真家が遭遇した〝逮捕〟と蘇生の物語

ライター
本房 歩

封印していた国外への旅

 木戸孝子は、近年、欧米の写真展で評価が高まっている写真家の1人である。
 特に注目されているのは、2022年から発表しているシリーズ〈Skinship〉で、自身の出産と子育ての経過、家族の親密さをセルフポートレートの手法で撮ったもの。

 2024年6月、高知県四万十市に暮らす木戸のもとに、ベルギーの有名ギャラリー「IBASHO」のディレクターから連絡があった。「IBASHO」は木村伊兵衛、土門拳、石元泰博、細江英公、森山大道といった日本の優れた写真家をヨーロッパに紹介してきたギャラリーだ。

 ディレクターのアンマリーは、前年の「KYOTOGRAPHIE」のポートフォリオ・レビューで木戸の作品を見ていた。
 アンマリーからの連絡は、2024年11月に開催されるヨーロッパ最大のアート写真フェアである「パリ・フォト」に、木戸の作品を展示したいというものだった。

 今回の「パリ・フォト」の会場は巨大なガラス天井が印象的なグラン・パレ。1900年のパリ万博のために建設された施設で、2024年パリ五輪ではフェンシングなどの試合会場にも使用された。
 34カ国の240ギャラリー・出版社のブースが並び、お抱えアーティストの作品が展示されている。「IBASHO」のブースに並んだのは、木戸の作品シリーズ〈Skinship〉だった。 続きを読む

『摩訶止観』入門

菅野博史
菅野博史

第78回 正修止観章㊳

[3]「2. 広く解す」㊱

(9)十乗観法を明かす㉕

 ⑥破法遍(6)

 (4)従仮入空の破法遍⑤

 ④空観(3)

 以下、具体的に老子・荘子と釈尊との比較をテキストに沿って紹介する。この箇所は、『輔行』によれば九項目に分類されているので、これにしたがうのが便利であろう。また、解釈についても『輔行』を参照する。ただし、この比較は、智顗の時代までに中国に伝来した仏教の総体と老子の『道徳経』五千文とを比較したものも含まれており、公正な比較とは言えないと思うが、なかには興味深い論点もある。 続きを読む

書評『西洋の敗北』――世界的危機の背景に宗教の消滅

ライター
小林芳雄

宗教ゼロ状態

 本書『西洋の敗北』は、ウクライナ危機を始めとする現在の世界の危機の原因を明らかにし、今後の世界の在り方を展望した、今もっとも注目すべき一書である。
 著者のエマニュエル・トッド氏は、ソ連崩壊やリーマン・ショックなどを次々に言い当てたことから、現代の予言者と形容されることもある。しかし、そうした予言は神がかり的な霊感によるものではない。歴史人口学と家族人類学に基づきデータを精緻に分析する、卓越した知性から生まれたものだ。
 現在の世界が置かれている危機的状況はロシアから生まれたのではなく、ましてやウクライナから生まれたものでもない。問題の本質は西側諸国(イギリス、フランス、アメリカ)の自壊現象である「西洋の敗北」にこそあり、そしてその原因は宗教消滅「宗教ゼロ」にこそある。世界各地の家族構造と人口動態に着目した独自の観点から、トッド氏は極めて大胆な議論を展開している。この「宗教ゼロ」に関する分析は、本書の白眉であり、理解するための重要な鍵である。 続きを読む

書評『歌集 ゆふすげ』――美智子さま未発表の466首

ライター
本房 歩

初めて入った著者の名前

 上皇后・美智子さまの歌集『ゆふすげ』(岩波書店)が、本年1月15日の発売から1カ月で10万部を超えたという。
 美智子さまの歌集には、これまでにも上皇さま(当時は皇太子)との共著『ともしび』(1986年/ハースト婦人画報社)、単著としての歌集『瀬音』(1997年/大東出版社)がある。
 ただし、それらには「皇太子同妃両殿下御歌集」「皇后陛下御歌集」とあるのみで、作者の個人名が記されていなかった。今回は初めて、この歌集の詠み人である作者の名が「美智子」と記された。

 皇室の和歌の御用掛(ごようがかり)で、歌人であり細胞生物学者でもある永田和宏氏は、本書巻末に寄せた「解説」で次のように記している。

 もちろんお二人は、わざわざ名前を記さないでも、その歌集が誰のものであるかは一目瞭然です。
 しかし、今回、私は著者としての美智子さまのお名前を記すことを、強くお勧めいたしました。「美智子」という名を持った一人の歌人の歌として、皇太子妃、皇后、上皇后などといったバイアスをかけずに、読者の目に届いてほしいとの願いからです。美智子さまの御歌は、そのように読まれてこそ、本来の歌としての輝きを見せてくれる歌であると私は信じております。(本書/永田氏の「解説」)

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