連載エッセー「本の楽園」 第149回 弱さの思想

作家
村上政彦

『弱さの思想』は、高橋源一郎と辻信一の対談で進められる「思索ノート」ともいうべき本だ。僕は、30年以上にわたって小説を書いているが、デビュー前を含めて、「あ、やられた」とおもった作家が何人かいる。
 そのひとりが高橋源一郎だ。彼のデビュー作、『さよなら、ギャングたち』を読んで、作中に挿入された少女漫画のページを眺め、「あ、やられた」とおもった。こんな小説を書きたいと、僕自身も考えていたのだ。それ以来、高橋の仕事には注目している。
 辻信一は、恥ずかしながら最近になって知った。文化人類学者である。彼の考えを吟味して、これからの世界を創っていくのに必要な人物だとおもった(辻さん、偉そうな言い方で失礼します)。そのふたりによる対談(正式には大学の共同研究)なので、読まないわけにはいかない。
 対談なので、難しくない。すぐれた文学者と研究者が立ち話しているのを傍で聴いているような易しさがある。気楽でもある。それに、なんといってもおもしろい。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第148回 書こうとしない「書く」教室

作家
村上政彦

 なんとなく気になる小説家がいる。作品を読んでもいないし、会ったわけでもない。いしいしんじ――みなさん、知っていますか? 僕は、書店をパトロールしているときに、彼の本を見つけて(手には取らなかったけれど)、いつか読むことになるだろうと直感した。
 ある日、なんのきっかけだったか、アマゾンで数冊、いしいの小説を買った。読んでみると、なぜか懐かしい。むかし読んだ気のするような作品ばかりだった。それから僕は、いしいしんじの隠れファンになった(きょう初めて発表しました!)。
 新刊が出たことを新聞のインタビュー欄で知った。『書こうとしない「書く」教室』。さっそく買って読んでみた。出版社のオンライン講座として収録した話をもとにしているので、とても読みやすい。
 午前の部は、1時間目から3時間目まで。ここで語られるのは、いしいの来し方だ。会社員だったとき、処女作の出版が決まって、二足の草鞋を履いた、と喜んでいたら、急に胸が苦しくなって、見たら、おばあちゃんが乗っていて、2本の指を出している。
 二足の草鞋はだめなんだとおもって、その日、会社を辞めた。それから専業作家になって、読んでいるとき以外は、いつもノートになにか書いている。理由は、「かゆみ」。自分と世の中の境界が、かゆい。それをかきむしるのは、文字であり、言葉だ。 続きを読む

書評『バカロレアの哲学』――フランスの哲学教育とそれを支える理念に学ぶ

ライター
小林芳雄

フランスの高校生が受ける哲学教育とは

 バカロレア試験とは、フランスの高校生が卒業時に受ける試験である。この試験に合格した学生には高校卒業資格と同時に大学入学資格も授与される。その起源は古く、ナポレオンが皇帝であった1808年にまで遡る。それ以来、幾多の制度改革が行われ、今日まで続いている。
 この試験のなかで大きな比重を占めるのが、哲学の試験だ。生徒たちは高校の3年次、必修科目として、週4時間の哲学の授業を受け、その1年間の学習の成果をバカロレア試験で問われることになる。しかも1科目に対する試験時間が日本とは比較にならないほど長く、なんと、哲学だけで4時間の筆記試験が行われるという。驚くのはその形式だけではなく、試験問題の内容だ。本書の冒頭では過去に出題された問題が紹介されている。

労働はわれわれをより人間的にするのか?
技術はわれわれの自由を増大させるのか?
権力の行使は正義の尊重と両立可能なのか?(本書1ページ)

「こんな、難しい問題を高校生がどうやって解くのだろうか」と、首をかしげたくなる人も多いはずだ。さらには、フランスは文化水準が高い国だから、高校生でも哲学を学ぶのだろう、と考える人もいるのではないだろうか。
 著者は、フランスに10年滞在し、大学で哲学の博士を取得した。その経験をもとに、上記のような考え方は、間違いであると指摘する。確かに文化による相違があるとはいえ、フランスの高校生も日本の高校生とあまり変わることはないという。では、難しい試験問題になぜ答えることができるのかといえば、将棋やチェスにも定石があるように、哲学の試験問題の解答には決められた手順と解法がある。それを1年間かけて、徹底的に教えられるから問題を解くことができるのである。
 本書は、バカロレアの試験問題や採点の基準などの制度的な側面から、試験問題の解答方法までを分かりやすく解説している。上述したような、簡潔な一文で述べられる問題を解くことを通して、問題の選びかた、問題の分析の方法、さらには文章の構成の作り方から、小論文の執筆にいたるまでの過程が丁寧に論じられている。この箇所は、本書の大きな読みどころのひとつであるだけではなく、日本の大学生が論文を書く際に役立ち、社会人が行うプレゼンテーションや社員教育にも、十分に役に立つ内容であると思う。またこれから哲学を学び直したい人にも参考になる。

哲学を学び、「思考の型」を身につける

 実際にバカロレア哲学試験が試すのは、「思考の型」がマスターされているかどうかです。「思考の型」とは何でしょうか。それは、一文で表現される問題を決まった手続きによって分析し、解答を「導入・展開・結論」という三つの部分からなる構成に従って書くという、バカロレア哲学試験で要求される答案作成の方法です。フランスの高校生はこの「型」を一年かけて哲学の授業で学びます。バカロレア哲学試験は、その「型」が使いこなせるかどうかを評価する試験なのです。(本書8ページ)

 著者が強調するのは、フランスで高校生に行われている哲学教育の目的は哲学の専門家を養成するためではない。基本的な「思考の型」を身につけ活用する力を養う点にある。その利点は2つある。
 ひとつは、哲学教育によって批判的に物事を考える力が養われる点である。
 さらにもうひとつは、多様な意見を理解できる点にある。考え方の異なる人が独自な表現を用いて議論をすれば、お互いを理解することは極めて難しい。しかし、共通の論理的手続きと表現方法を用いて議論するなら、おのずから論点は明確になる。「思考の型」は多様な人同士の討議と理解を可能にするフォーマットとしての役割も果たしている。

「思考の型」を活用できる「市民」を育成する

 結果としてそれは多様な意見を理解し、時には同意し、時には反論するような健全な意見表明の場を生み出すことになるでしょう。そのような意見表明を行うための能力を持った人々を「市民」と呼ぶことができるでしょう。
 そうした討議の場は民主主義的な社会にとって不可欠です。問題はこのような「型」を身につけた人をどうやって増やすのか、ということです。その解決策として、フランスは哲学教育を行っているのです。(本書11ページ)

 フランスの哲学教育を支えている理念は、民主主義の担い手である「市民」の育成である。こうした準拠点があるからこそ、さまざまな問題を抱えながらも、哲学教育に多大な労力をかけているのだ。また制度的に生き詰まることがあったとしても、そうした当初の目的に立ち返り、改善をすることができる。
 先日、大学入学共通テストが実施され、ジェンダー問題や「親ガチャ」など時代を投影する問題が出題されるなど話題を呼んだ。さらに最近は詰め込み教育の悪弊あってか、「クイズ王」のような断片的な知識を持つ人がもてはやされる風潮がある。しかし本当に求められているのは、自ら考える力と体系知を身につけた人間だ。そうした日本社会の現状を変えるために必要なのは試験制度や出題内容ではなく、教育理念の見直しではないだろうか。
 また、フランスのように学ぶべき「思考の型」を持たない日本社会が、多様性に開かれた社会を築くことが果たして可能なのか。フランスの哲学教育から学ぶべき点はじつに多い。
 現在の日本の教育と社会の在り方を深く考えさせてくれる一書である。

『バカロレアの哲学――「思考の型」で自ら考え、書く』
(坂本尚志著/日本実業出版社/2022年2月1日刊)

連載エッセー「本の楽園」 第147回 物語の役割

作家
村上政彦

 かつてこのコラムで書いたかも知れないけれど、作家デビューする前の僕は、フランスのヌーボーロマンなどの影響で、前衛的な小説を書いていた。写真とキャプションを組み合わせて、これが自分の小説だと胸を張っていた。
 ところが、僕は前衛から降りた。きっかけは物語だ。ヌーボーロマンなどの前衛は、物語を否定した。僕は、物語こそが、小説のいちばんおいしいところではないか、と考えた。前衛は、「小説の死」を主張していたが、僕は、小説は死んでも、物語は死なない、という結論に達した。それで前衛を降りて、物語を書き始めた。
 物語とは何か? これは一言では片づけられない。人間は世界を物語として認識する。たとえば、今日一日。もっと長いスパンでとらえれば、自分の生涯。人間は、始まりがあって、途中の過程があって、結末がある、というかたちで、さまざまな出来事を整理する。
 だから、小説家でなくても、人間であるかぎり、誰もが物語をつくっているといえる――というようなことを考えていたら、こんな本と出会った。『物語の役割』。著者は、『海燕』新人文学賞で、僕より少しあとにデビューした小川洋子だ(いまや欧米の読書界でも活躍している)。 続きを読む

立憲・泉代表のブーメラン――パフォーマンス政党のお粗末

ライター
松田 明

公明党の出した「再給付案」

 政界で「ブーメラン」と言えば立憲民主党。その立憲民主党・泉健太代表の〝ポンコツ発言〟に、党内からも批判と溜め息が出ている。
 ことの発端は、3月8日に公明党が記者会見で示した物価高への追加対策だった。
 順を追って説明する。
 ロシアによるウクライナ侵攻の影響で、世界的に燃料費や食料品価格が高騰。昨年10月に政府が閣議決定した総合経済対策には、公明党の主張が数多く反映された。12月に成立した今年度第2次補正予算には、電気・都市ガス代の負担軽減策など、公明党が政府に強く訴えてきた数多くの支援策が盛り込まれている。
 たとえば電気・都市ガス代は1月使用分(2月請求分)から値引きされ、燃料補助金によってガソリンの店頭価格も本来より30円安い170円程度に抑制されている。
 2023年度政府予算案でも、政府は新型コロナ・物価高対策予備費に4兆円を確保。出産育児一時金の50万円への引き上げなど、公明党の主張が随所に反映された。人々の生活のどの部分に特にしわ寄せがきているか、全国に張り巡らされた公明党の地方議員のネットワークは、どの政党よりも敏感に「声」をキャッチできる。 続きを読む