創価学会の内在的理論
著者の松岡幹夫氏は創価学会員として生まれ育ち、僧籍をもったうえで、池田大作氏を師として創価学会の信仰をする学術研究者である。長年にわたって創価学会に関する思想的研究と言論活動を精力的におこなってきた。
それは従来の宗教学的あるいは仏教学的な方法論とは異なる。信仰の当事者として創価学会の内在的論理(創価学会の信仰を支える世界観や哲学)を読み解き、学問的に説明しようとするものだ。
近代科学のひとつとして成立した宗教学は、信仰に対して距離を置き、現象として分析しようとする。信仰というものは主観的なものだが、宗教学者は学問の論理に従って外部の立場から記述する。
それはそれで意味あることではあるが、日本の宗教学者らによるこれまでの創価学会論は、
大半が創価学会の「思想」について、ほとんど無知に等しい状態で論を進め、様々な評価を行っている(『新版 日蓮仏法と池田大作の思想』)
と松岡氏はかねてから警鐘を鳴らしてきた。
日本社会の動向に影響力をもち、現在進行形で世界192カ国・地域に発展する創価学会を論じようとするのに、その「思想」を理解していないがゆえに、およそ的外れにならざるを得ないのである。
近年、プロテスタント神学者である佐藤優氏が、創価学会とその指導者である池田大作氏、あるいは公明党について、出色の言論を次々に成立させている。これは、氏がキリスト教とのアナロジーで創価学会の内在的理論を読み解き、普遍的な言葉に翻訳することに成功しているからだろう。
佐藤氏の言論を通して、創価学会、池田会長、公明党に対して、格段に理解を深めた読者は創価学会の内外に少なくないはずだ。
三代会長と「学問の仏教化」
佐藤氏との対談集も刊行した松岡氏は、2019年に「創学研究所」を発足させた。
創価学会の初代から三代に至る会長は、いずれも信仰を根本に置いて学問を生かそうとしました。当研究所は、その精神を受け継ぎ、信仰中心の学問研究、言うなれば「信仰学」を展望し、形成していきたいと考えています。(同研究所サイト「所長挨拶」)
創学研究所の研究員である山岡政紀・創価大学教授は、
佐藤氏による「創価の信仰学」は「外から見た内在的論理」であるのに対し、私たちが取り組む「創価の信仰学」は「内から見た内在的論理」ということになります。(同サイト「創価の信仰学を考える」)
と端的に記している。
松岡氏は本書(『創価学会の思想的研究〈上〉』)のなかで、創価学会の三代の指導者がいずれも「仏教の学問化」を厳しく退け、「学問の仏教化」を明確に志向してきたことを指摘する。
この「学問の仏教化」とは、仏法の智慧であらゆる学問を生かすことだという。
牧口常三郎、戸田城聖、池田大作という創価学会の三代の指導者は、理性を伴った信仰の重要性を示してきた。
なかんずく、池田会長は世界の第一級の碩学たちと膨大な対話を重ね、対談集を編み、各国の最高峰の学術機関で講演をしている。
これらを可能にしたのは、池田会長が独善に陥らず、普遍的な言葉で自身の思想を語る圧倒的な力をもっていたこと。同時に、万般の学問を仏法の智慧で縦横に生かすという姿勢を貫いてきたからだ。
創学研究所が、創価学会の信仰をその当事者の立場から諸般の学問を補助学として語ることは、開かれた世界へ普遍的な言語で理性の橋を架けることであり、他教派との対話や協調、協力を可能にしていくだろう。
仏教の絶対平和主義とは何か
本書は、松岡氏が「創価信仰学」に行き着く途上で執筆した論考の数々を収録したものである。
今回の〈上巻〉では、「戦争と平和」「非暴力と死生観」の2部が全9章でとりあげられ、今後刊行される〈下巻〉では「仏法と人権」「共生へのアプローチ」が収められる。
たとえば「戦争と平和」では、不殺生と慈悲を説き、理念としては絶対平和主義といえる仏教が、現実には「脱世俗主義」によって世俗社会にある暴力を看過してきたことを指摘している。
また「脱世俗主義」は肉体の蔑視を生み、一方で焼身自殺をもって戦争に抵抗するような非暴力運動を支え、他方では仏教の破壊者とみなした相手は殺してかまわないという殺人肯定の論理を生んできたと松岡氏はいう。
あるいは無我や空を志向して個我を超越しようとする思想は、個の否定、倫理的責任の放棄につながりかねない。
実際に近代日本の戦時下にあって、仏教指導者の多くはこうした論理で戦争を賛美し、戦場での特攻精神すら鼓舞した。
このように仏教の「脱世俗主義」が構造的に結果として自他への暴力を肯定してきたという松岡氏の指摘は重要である。
そのうえで松岡氏は、釈尊の絶対平和主義とは、自分に対しても他人に対しても暴力を許さないものであり、命を捨てて政治権力と対決するのではなく、対話と教育によって説得して平和に導こうとするものだったことを示している。
ただし、こうした調和的非暴力には即効性がない。釈尊自身、マガダ国の隣国侵略は思いとどまらせたものの、釈迦族が隣国に滅ぼされるのを〝宿縁のゆえ〟として諦観するしかなかった。
日蓮においては、仏教の平和主義のあり方が劇的に変わったと松岡氏はいう。
従来の仏教が自他ともに「悟りの道」を歩むことで、心の次元から暴力を解消しようとしたのに対し、日蓮は「悟りの法」である妙法蓮華経の力で運命的な暴力の根源にはたらきかけ、この世から悲惨な暴力をなくそうとした。
日蓮が言論によって鎌倉幕府を説得(諫言)したアプローチは、釈尊の調和的非暴力を継承している。
同時に「立正安国」という立場は、社会を構成する1人1人のうえに「悟りの法」を顕現することで、武力の即効的解決と、運命的な戦争の回避を可能にするものだと松岡氏は論じている。
『人間革命』の主題が示すもの
SGI(創価学会インタナショナル)は、不軽菩薩の後継者を自任した日蓮の実践を継承する「人間尊敬の非暴力闘争」を世界に広げようとするものだという。
法華経に登場する不軽菩薩は、経典の読誦ではなく万人を潜在的な仏と見て礼拝讃嘆する実践に徹した。
池田会長もまた仏教を前面に出すことなく、「そこに人間がいるから行く」との信念で社会主義国を含む各国の指導者と対話し、世界市民の連帯としてのSGIを構築してきた。
松岡氏はSGIの非暴力運動の特徴として、「建設的な正義の怒り」「言論戦としての戦闘的非暴力」「教育的非暴力」「正戦論の否定」「戦う宗教多元主義」といった思想的・実践的な立場を挙げている。
さて、公明党が与党の一角を占めるようになって、創価学会・公明党の平和主義にはしばしば疑念が投げかけられてきた。
東西冷戦というある意味で安定した状況下で、公明党も野党であった時代は楽だっただろう。しかし世界が多極化し、公明党が政権政党になると、困難な判断を迫られる局面が増えてくる。最たるものが平和安全法制だった。
仏教の非暴力の教えに政治的抵抗を加味したエンゲージド・ブディストたちによる、政治権力と対立的な反戦運動は分かりやすい。
これに対し、創価学会の平和運動は政治的な闘争に踏み込もうとしない。日本政府に対してだけでなく、諸外国の政策についても基本的には「反対」や「非難」を示さない。
じつは何も与党になったから態度を変えたのではなく、第二次世界大戦やベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争でも、このスタンスは変わっていなかったと松岡氏は指摘する。
政治権力と対立的・対決的に向き合うのではなく、対話と説得のアプローチをとるという創価学会の姿勢は、釈尊のそれであり、日蓮の姿勢を継承するものなのである。
そもそも日蓮を〝戦闘的〟な人物と捉えるのは誤りなのだ。日蓮は法華経を否定する非寛容な教派に対しては対決を挑んだが、政治権力には説得で臨んできた。
むしろ、日蓮と同じく宗教によって社会や人類の運命を転換していくことに、創価学会の眼目はある。
このことは「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という、小説『人間革命』の主題に明確にあらわれている。
迂遠に見えても、そこにしか根本的な平和への道はないというのが池田会長の思想なのである。
だからこそ、対決型・抵抗型の政治的行動で何かを解決しようとはしない。そうではなく、仏法を流布する基盤である創価学会を安定的に発展させることを第一義とする。
知恵を使って為政者を説得する
日蓮は、仏教上の敵とは対決しても、政治的な悪は説得した。仏教上の誤りは仏法を破壊するから戦うしかないが、政治的な誤りはすべてを生かす知恵で善導すべきとした。日蓮が北条幕府を「諫言」したのは説得型の平和主義である。政治の世界で平和をつくる日蓮信仰者は、知恵を使って為政者を説得しなければならない。(本書)
政党である公明党は、創価学会と必ずしも同列では語れないが、その結党宣言には「仏法の絶対平和思想」が掲げられている。
仏法は「善悪二元論」を避け、基本的に「すべてを生かす」態度をとる。これが公明党の「中道主義」である。
公明党が自民党という巨大政党と20年にもわたって連立政権を維持し、日本の税制や安全保障、外交にもかかわれているのは、その理念を複雑な内政・外交に具現化する力量をもっているからだろう。
反面、対決型を支持する人々の目には、公明党の中道主義は日和見主義的でご都合主義なものと映る。
先に記したように、創価の三代の会長はいずれも「すべてを生かす」態度で「学問の仏教化」に徹した。そのことによって、90年前に日本に誕生した創価学会は早くも世界宗教化を遂げようとしている。
この全体像を見ようとせず、なかには学問の立場を標榜して現在の創価学会を政治的に評論する人々もいる。だが、それはまさに机上で信仰を解体しようとする「仏教の学問化」に過ぎないという感想を強くした。
創価学会が日本の動向を左右する無視できない存在となり、世界宗教への道を本格的に歩みはじめた今、その「思想」を普遍的な言葉に翻訳していこうとする「創価信仰学」の意義は大きいと感じる。