街そのものが消えた陸前高田
陸前高田市は岩手県の東南端の街。太平洋に向かって広田湾が開け、隣は宮城県気仙沼市になる。山間から流れる気仙川が森の養分を広田湾に注ぎ、極上の牡蠣やワカメを育てている。
だが、あの東日本大震災では高さ10メートルを超す大津波が市街地に襲いかかった。「日本百景」だった高田松原の7万本の防潮林は1本だけを残して壊滅。一部4階建ての市役所も屋上までのみ込まれ、111人の職員が帰らぬ人となった。
津波は気仙川に沿って数キロも内陸まで入り、市街地のほとんどの部分を破壊して、1800人近い市民が命を落としている。
街そのものが姿を消し、行政も機能を失ってしまった陸前高田市を支えたのは、同市出身者らによって東京で立ち上げられたNPO法人だった。在京陸前高田人会のメンバーらは、発災直後に連携を取り合い、救援活動を開始する。その中心にいた1人が、国連幹部職員の経歴をもつ村上清さんだった。
国連幹部として難民支援にあたる
村上さんは1959年、陸前高田市生まれ。地元の大船渡高校を卒業したあと、サンフランシスコ大学に進み、ワシントンの日本大使館に勤務。その後、東京でシティバンク、モルガン銀行、メリルリンチ、PWCなどそうそうたる外資系金融機関でのキャリアを積む。
2000年から2005年までは、ジュネーブにあるUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)本部の人事研修部長に迎えられ、コソボ紛争、アフガニスタン空爆、イラク戦争などの難民支援にあたる。またニューヨーク国連本部の国際人事委員会の一員として、国連全体の人事機構改革にも手腕を発揮した。
帰国後、ゴールドマン・サックスの人事部門ヴァイス・プレジデント、ニューヨーク・メロン銀行アジア太平洋地域人事部長など、ふたたび世界的金融機関で重責を担っていた渦中に、東日本大震災が発生する。
本書は、村上さんの生い立ちから国連幹部職員になるまでの赤裸々な半生と、震災が発生してから今日までの陸前高田市の救援・復旧・復興の歩みを綴った記録である。
UNHCRの経験と知識
香港で震災の一報を受けた村上さんは、故郷が壊滅していることを知り、即座に行動を開始した。機能を失った市役所行政を東京からリモートで支援するという発想も、UNHCR時代に紛争地帯や自然災害現場で人々を保護する手法として学んだことだった。
さらに国連での経験から、世界に向かって被災地の実情を発信し、どのような支援を求めているのかを伝える「グローバル・アピール」もおこなった。その結果、イタリアやシンガポール政府が陸前高田支援に手を挙げる。
平日はNYメロン銀行の部長職をこなし、毎週末は陸前高田に通い続けた。NPO法人「AidTAKATA」を立ち上げ、災害FM放送の運営をはじめ、ゆるキャラ、奇跡の一本松を使ったモンブラン製の万年筆など、行政がカバーしきれないことを次々に形にしてきた。
2014年には岩手大学客員教授に就任。早速、ハーバード大学との連携を実現させ、2017年には陸前高田市内に岩手大学と立教大学の合同サテライト・キャンパスがオープンする。
本書の巻末に収録された戸羽太・陸前高田市長との対談で、市長は村上さんがいなければ出来得なかったことが多々あったことと、なにより〝外〟との出会いをその場だけで終わらすことなく、そこからのさらなる展開と継続を開いてきた外交手腕に深い感謝を述べている。
「運命」を「使命」に転じる
この本を書いた理由について村上さんは3点を挙げているが、それはそのままこの本を読むべき理由にもなっていると思う。
1つは、震災からの5年間、陸前高田が歩んできた記録を示し、1人でも多くの人に同市への関心を寄せてもらいたいこと。
2つは、「地方創生」のモデルを発信したいこと。〝ゼロからの街づくり〟を強いられている陸前高田には、むしろそこにやり甲斐を見出した人々が、安定した暮らしを捨てて各地から集まってきている。
3つは、村上さん自身の半生を綴ることで、同じように地方に生きている青少年にも世界に雄飛していく夢を持ってほしいという願いだ。
短波ラジオとアマチュア無線しかなかった私の時代と違い、今はインターネットの時代。どこにいても世界を呼吸することは可能です。
真の勝者とは、「運命」を「使命」に転じていける人の異名でしょう。人も街も、ハンディを負い、苦難に直面してこそ、じつは大きく前途を開くことができるのです。若き日の自分への誓いを果たしていけることほど、人としての幸せはありません。(あとがき)
もっとも被害の激しかった街の1つ陸前高田の救援・復旧・復興に、同市出身の元国連幹部職員が縁の下で果たしてきた役割は、ほかの自治体にとってもヒントになることが多い。
ぜひ本書を手に取って、そしてお土産を買いに行くことでも十分だから、彼らが今も奮闘している陸前高田に足を運んでもらいたい。