獄中に閉じた生涯
生前に功成り名を遂げ、あるいは権勢を誇ったものの、没して時間を経るごとに世の記憶から消えていく人物というのは、実際あまりにも多い。
反対に、ひそやかに生涯を終えながら、時代と共にその生きた軌跡と残された思想が燦然と輝きを帯び、世界に大きな影響を与えていく人間が、稀に存在する。
牧口常三郎は、まぎれもなくそうした稀有な1人であろう。
牧口は72歳になった昭和18年(1943年)に、治安維持法違反ならびに不敬罪で逮捕され、翌19年秋に東京拘置所の病監で逝去した。
戦時下であり、しかも「思想犯」とされて獄死した人物の葬送は、身内だけ10人ほどの簡素なものであった。
「教育革命」と「宗教革命」
牧口は、明治36年(1903年)に地理学界の注目を集めた名著『人生地理学』を刊行した地理学者であり、尋常師範学校を卒業した日から60歳の春まで、初等教育の現場に関わり続けた実践型の教育者であった。
40代以降は、東京で小学校長を歴任し、貧困家庭の児童のためにいち早く給食制度を導入するなど、日本の初等教育の近代化にいくつもの先駆的な業績を残した。
なにより、明治以降の富国強兵、国家主義への傾斜のなか「国家のための教育」が当然視されていた時代にあって、「教育は子供の幸福のためにある」という画期的な教育観の大転換を訴えた。
それまで、単に知識や技術を与えるものと考えられてきた教育に対し、牧口は「社会に価値を創造し、自他共の幸福を実現する力」を育むことこそ教育の目的だと主張したのである。
こうした独創的な教育理念は、牧口を師と仰ぐ戸田城聖の尽力を得て、全4巻の『創価教育学体系』として昭和5年から順次刊行されている。
この昭和5年の『創価教育学体系』刊行は、同時に創価教育学会(現在の創価学会)の創立となる。
そして「教育革命」をめざした同会の運動は、やがて日本国が国家神道を全面に出して戦争を遂行していく渦中で、それに正面から抗するように「宗教革命」の運動としての色彩を強くしていく。
その結果、牧口と戸田は逮捕され、牧口は獄死。約3000人の会員を数えた創価教育学会も、事実上、崩壊して、ひとたびはすべてが葬り去られたかに見えた。
世界に広がる創価の連帯
だが、生きて獄を出た戸田城聖によって学会は再建された。さらに戸田の不二の弟子となった池田大作によって、世界的な発展を遂げる。
牧口の逝去から70余年を経た今日、創価学会はわが国最大級の民衆運動として日本社会に大きな役割を果たすのみならず、SGI(創価学会インタナショナル)として世界192ヵ国・地域に広がっている。
牧口の教育理念は、やはり池田によって幼稚園から大学院までの創価一貫教育の学府として結実し、すでに半世紀の実績を経て、各界に幾多の人材を輩出してきた。
2001年に開学したアメリカ創価大学をはじめ、創価教育の府は各国にも生まれ、いずれの国でも高い評価を得ている。
牧口が命を賭して残した「教育革命」と「宗教革命」の火種は、創価学会の2代、3代の会長の手で幾百千万の民衆に受け継がれ、今や地球全体を包む光彩として広がっているのである。
牧口の名前と業績は、池田SGI会長に名誉学術称号を贈った世界の400近い最高学府はもとより、世界の津々浦々に知られるようになって久しい。自治体等によって正式に牧口の名前を冠された道路や公園なども多い。
21世紀に入り、北京大学など海外の多くの大学で「池田思想」研究が年々に盛んになり、それは必然的に池田の恩師である戸田、先師である牧口の学術的研究にも及び始めている。
近年に新発見された資料
本書は、月刊誌『第三文明』に連載の「創価教育の源流」のうち、第一部の牧口常三郎編を単行本化したものである。
牧口の生誕から、教員時代、地理学者としての足跡、創価教育への歩み、そして晩年の宗教改革の闘争まで、牧口の生涯を一つ一つ資料の裏付けを得ながら描いている。
たとえば牧口は明治37年(1904年)から、嘉納治五郎の創立した弘文学院で中国からの留学生たちに地理を教えていたが、その講義録が留学生の手によって110年以上前に中国江蘇省で出版されていたことなど、近年になって明らかになった研究成果がいくつも盛り込まれている。
ただし「あとがき」に、「とはいえ、牧口常三郎に関する研究は、まだ入口にたどり着いたばかりである」と記されてあるように、牧口の生涯については資料そのものが未発見となっているものもまだまだ多い。
全編を通して、抑制のきいた読みやすい文体で淡々と綴られているが、それだけに執筆に関わった研究者たちの、〝創価教育の父〟の実像に迫ろうとする執念と気迫、そしてなにより報恩感謝の思いが、行間から溢れて読む者に伝わってくるのである。