茂木健一郎という知性が日本社会に与えたインパクトを一言で言えば、それは「こころ」は「記述」できるという前提で人間に、文化に、そして社会にアプローチしたことに尽きるだろう。
文学的な「内面」ではなく、特定のプログラミングによって動く「脳」を前提にした思考は、時に淡白な人間観を生むという批判を呼ぶ一方で確実に多角的で明晰な人間と社会を語る言葉を獲得し、支持を集めていった。
そして茂木自身も度々間接的に言及しているがこの「人間観」の更新は、インターネットが代表する現代の情報技術の発展と並走していた。
情報技術の発展は人間のコミュニケーションを可視化させ、またその無意識の集合であるビッグデータの解析を可能にし、そしてこれまでは「見えない」ものだった人間の側面を「見える」ものにした。
この変化は茂木の思考の中核にある「脳」という視点を導入することで、「こころ」を「見えるものに」「記述できるものに」捉えなおすという発想と相似形を成している。
こうした前提を確認したうえで本書「新しい日本の愛し方」を読み解いてみよう。ポイントは二つ。ひとつは茂木が前述の「人間観」の更新を文明論に拡大して捉えていること、第二にその文明の新しいステージに社会が適応するための「教育論」として本書が展開されていることだ。
茂木にとってグローバル化/情報化の本質とは国際的分業の加速や流通の発展ではなく、人間観それ自体の更新に他ならない。そしてこの「現代の黒船」に対応していくには、かつての黒船への対応=西洋化/近代化のいびつな受容とその奇形的発展の産物である現代日本の国内教育は「スカ」であるというシビアな認識がここにある。
だが、一連の茂木の指摘は本質的で正しいからこそ、この主張を現代日本の文化空間が受け入れるのは難しいだろう。
後続の世代として茂木の警鐘を無駄にしないための仕事ができれば、氏の語る愛すべき「新しい日本」に少しでも近づけることができれば、とは思うのだが。