<シリーズ 文化芸術を考える>第1弾
文化・芸術の世界で学んだ人たちに向けて、誇りと使命をもってほしいと訴える宮島達男氏。その理由とは――。
2つのソウゾウリョク
「文化・芸術は、そこに携わる人たちの2つの〝ソウゾウリョク〟を鍛えてくれる」
私がそう考えるようになったのは、芸術大学で学生と向き合うようになってからです。毎年2万人に及ぶ人たちが芸術系の大学を卒業していくなかで、アーティストとして生計を立てられるのは、ほんの1%にも満たない人で、残りの99%は普通の社会人として世の中に出ていきます。
芸術教育とは、その1%の人のためだけにあるのではなく、残りの99%の圧倒的多数の若者に対して責任があるはずです。
そこで彼らに何を伝えていくことができるのかと考えたときに、2つの〝ソウゾウリョク〟に思いが至りました。
1つは想像力=イマジネーションです。文化・芸術の世界では、あらゆる国の人たちと感動を共有することができます。それは人間には万国共通の感情があるからです。たとえば、夕焼けを見たときのなんともいえない感動、桜の花が満開になったときの華やぐ気持ち、赤ちゃんの笑顔を見ればニコッと笑ってしまい、お母さんの悲しい顔を見れば悲しくなるといった誰しもがもつ共通の感情です。
文化・芸術はそのような人間共通の感情を増幅したり、利用しながら表現行為へとつなげていきます。そのため表現行為を学ぶなかで、おのずと人間がもつ共通の感情を学ぶことになります。それはいわば、他者と同苦したり、喜びを分かち合ったり、他者と同じ気持ちになるという想像力を鍛えることにつながるのです。
そしてもう1つの力が創造性=クリエーティビティーです。今の世の中はとても複雑で、1つの社会問題に対して簡単に答えが出せません。放射能や汚染水の問題もそうですが、喫緊の課題が山積みされるなか、解決に向けて新しい発想によるイノベーションやクリエーティビティーが求められています。
創造性は数学や国語といった5教科の学習だけで身につくものではありません。文化・芸術のように、ほかのどこにもない自分のオリジナリティーを必死に探し出す作業のなかで、創造性を育むことができるのです。
そしてこの2つの〝ソウゾウリョク〟は、あらゆる人や組織、社会にとって必要な力であると確信します。
文化・芸術教育の重要性
文化・芸術教育が培うものとして、日本社会に欠けている「批評性」があると思います。日本社会には、意見の対立を恐れて議論を避けたり、安易に正解を求めてしまう精神風土があります。
しかし、自分のなかに批評性をもち、自分で答えを見つけ出していく力をつけることはとても重要なことです。
戦後、日本で始まった芸術運動に「具体」という美術運動があります。画家の吉原治良氏を中心に、当時の若い画家たちが推進したこの運動の唯一のテーゼ(運動の基本的な方向)は、「人のマネをするな」でした。この芸術運動は戦後唯一、ヨーロッパの文化人によって評価されています。
誰かの前例を踏襲することは楽ですがマネをしないということはとても大変です。なぜなら人と違うことをするためには、ほかの人たちがやっていることを批評的に見なければできません。
文化・芸術の世界は人と同じことをしたり、均質化することとは、とてもかけ離れた世界です。そのため批評性が非常に鍛えられる世界だといえます。
しかし、今の教育環境のなかでは、ゆとり教育の反動によって5教科重点の教育が進められ、ほかの教科は外に追いやられています。最近では残念なことに、公立学校を中心に美術の授業時間は削減され、専任の美術教員が常勤していない学校も増えています。
ただしこれは、文科省だけの責任ではなく、私たち美術に関わる人間の怠慢もあると思っています。なぜなら文化・芸術がもつ本当の意味と社会における使命を正しく社会に訴えてこなかったからです。アーティストが自分のオリジナリティーを獲得することに精いっぱいになってしまい、他者に対して文化・芸術のもつ力を訴えてこなかったことは反省すべきことだと思っています。
だから私は、芸術を学ぶ学生に伝えたいのです。2つの〝ソウゾウリョク〟を養い、批評性を携えて社会に出るみなさんは、仮にアーティストにならなかったとしても、自分のいる場所や地域を豊かにし、世界を変革する力をもっているということを。それこそが文化・芸術を学んだ人間の使命なのです。
芸術平和学という学問
文化・芸術を学ぶことには、このように世の中を豊かにしていく誇り高い使命があります。しかし、既存の芸術教育の現場には、アーティストとして生計を立てられなければ意味がないとする悪しき土壌があります。せっかく文化・芸術を学んでいても、アーティストになれなかったと自分を卑下する人があまりにも多いのです。私はこの悪しき土壌を壊していきたいと考えています。
アーティストになれるのは、ほんの1%の人であり、そのことだけを学ぶ目的とするのは、まさにギャンブルに等しいことです。アーティストになれなかったその他大勢の人の数は、戦後数十年の間で数十万人に及んでいます。この人たちが芸術を学んだという誇りを胸に、地域社会のなかで文化・芸術がもつエッセンスを輝かせながら生きていくことができていたら、もっと平和で豊かな社会が生まれていたのではないかと思います。
私が大学で教えている「芸術平和学」も、そのような文化・芸術がもつ本当の意味を伝えていくことに目的があります。
ともすると平和学は、政治的なアクティビストの領域と、学者のアカデミックな世界の2種類に分類されてしまうなかにあって、そのどちらにも属さずにもっと感情に訴えていく種類の学問として教えています。
簡単に言い表せば、全く価値観も思想も違う人同士が、町内会の盆踊りでちょうちんに灯がともされると、なんとなく集まってきて、一緒になって自然と踊りだしてしまう。それが文化・芸術の力であり、その力こそ、平和を生み出す原動力になりえるということです。
文化・芸術が平和に寄与するという観点では、創価学会が展開する文化・芸術運動を高く評価しています。
民主音楽協会の主催する公演や東京富士美術館での展示は、国境を超えまさに百花繚乱、他に類を見ないすばらしい芸術を数多く紹介しています。
そこにはあらゆる差異を認め合う世界が表現されており、さらに人びとをそこへ導こうと具体的に行動されています。こうして文化・芸術を武器にして、人びとの差異を認め合う平和的な世界を創出しようとされているのが池田SGI会長です。
このような文化交流があるからこそ、政治的に厳しい局面を迎えたとしても民衆レベルの交流が維持できるのです。
その意味で、創価学会の文化・芸術活動のもつ意味は、今後ますます輝きを放っていくものだと確信します。
<月刊誌『第三文明』2013年12月号より転載>
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