【コラム】「無料社会」がもたらす文化の劣化を憂う

フリーライター
前原政之

「フリーミアム」は「タダでラッキー!」なだけか?

 米国の雑誌『WIRED(ワイアード)』の編集長で、「ロングテール」という概念の提唱者でもあるクリス・アンダーソンは、その著書『フリー/〈無料〉からお金を生みだす新戦略』(NHK出版/高橋則明訳)の中で、次のように述べている。

「今日、市場に参入するもっとも破壊的な方法は、既存のビジネスモデルの経済的意味を消滅させることだ。つまり、既存ビジネスが収益源としている商品をタダにするのだ。すると、その市場の顧客はいっせいにその新規参入者のところへ押しかけるので、そこで別のモノを売りつければよい」

 これが「フリーミアム」を指していることは、いまでは言うまでもない。2009年にこの『フリー』が刊行された当時は、「フリーミアム」はまだ目新しい言葉だった。
 念のために説明しておくと、フリーミアムとは、「フリー」(Free=無料)と「プレミアム」(Premium=割増)の合成語。基本的なサービスを無料で提供し、さらに高度な機能や特別な機能について料金を課金するビジネスモデルのことである。
 Gmailなどの高機能サービスを無料で提供し、にもかかわらず巨額の収益を上げているグーグルに代表されるフリーミアムは、いまやあらゆる分野に広がっている。
 フリーミアムは、それによって無意味化されてしまう「既存ビジネス」側にとっては脅威となる。たとえば、ケータイなどで遊べる「ソーシャルゲーム(オンラインゲーム)」は、基本無料で遊べて、「アイテム課金」と呼ばれるフリーミアム・モデルで収益を上げている。これは、ゲームソフトを売って儲けている「既存ビジネス」各社にとっては脅威である。
 では、我々一般消費者にとってはどうか。フリーミアム・ビジネスの隆盛は、「タダのものが増えて、いいね」というメリットだけをもたらすのか? そこに隠された脅威はないのだろうか?
 私は「ある」と考える。ただし、「ソーシャルゲームに夢中になった子どもが、親のクレジットカードで高いアイテムを買ってしまう」などということではない。フリーミアムの隆盛に象徴される「無料社会」化は、文化の質にとって脅威だと言いたいのだ。

身銭を切ってこそ磨かれる「文化を味わう力」

 半年ほど前、私は石田衣良氏と朝井リョウ氏のある雑誌での対談記事(『潮』2013年2月号)の構成を担当した。その中で、20代前半の若き小説家である朝井氏の、大要次のような発言に強い印象を受けた。

〝いまの10代は、何をするにもまず無料でゲットできるものを探す。それは、自分たちが10代のころにはまだなかった感覚だ。また、無料で手に入るものには「自分が選んでいる」という感覚自体がないから、よいものを探し当てた喜びもない〟

 なるほど、その通りだと思った。
 私が音楽好きな高校生だったころ、CDはまだ高価なもので、乏しいお小遣いでは月にアルバム1枚買うのがやっとだった。その1枚に何を選ぶか、吟味に吟味を重ねたものだ。買ったアルバムが期待外れだと思ってもくり返し聴き、そうしているうちにだんだんよさがわかってきたりした。思えばあのころ、1枚のCDにはなんと重みと価値があったことか。
 一方、いまどきの10代には、CDを買うという発想自体がもうあまりない。過日私は、高校生の我が息子に、「CDなんて、どうして買うの? YouTubeで聴けばいいじゃん」と真顔で言われ、驚いてしまった。「ああ、いまの10代ってこういう感覚なんだ。そりゃあCDも売れないはずだわ」としみじみ思ったものだ。
 なるほど、YouTubeを見れば、ロックでもジャズでも、過去の名盤と言われるアルバムが丸ごとアップされていて、いくらでも聴くことができる(残念なことに、その多くは著作権者に無断でアップされているが、ここではその問題には触れない)。それは、かつて多くの音楽好きが夢見たであろう〝無限・無料ジュークボックス〟の実現ともいえる。
 だが、ネット上でタダで聴いた場合と、乏しい小遣いをはたいて買ったCDで聴いた場合では、たとえ同じ作品でも、音楽体験としては似て非なるものなのではないか。吟味を重ねて1つの作品を選択し、身銭を切ること――その有無は大きいと思うのである。
 骨董であれ美術であれ、音楽であれ演劇であれ、文化の価値を見極める眼力は、身銭を切り、手間ひまをかけた鑑賞体験を積み重ねてこそ磨かれていくものだ。タダで、クリック1つで手に入るお手軽な体験をいくら重ねても、鑑賞眼はけっして磨かれない。……などと言うと、物心ついたころからYouTube、ニコニコ動画などの無料文化を享受してきたいまどきの若者は、反発するかもしれない。
「ケッ! そんな鑑賞眼なんて、そもそも欲しいとも思わないね」と……。
 そう思うのも理の当然だろう。タダで鑑賞できる作品に対して、人はそもそも大した期待を向けない。作品の1部をつまみ食いして、気に入らなければそのページを閉じるだけだ。そんな向き合い方をする以上、作品を深く味わうための鑑賞眼など、そもそも必要ないのである。そのことを含めて、「無料社会」は文化にとって脅威だと思う。
 漫画『闇金ウシジマくん』(作・真鍋昌平)に、「簡単に手に入るものは、大切にできねェ」という印象的なセリフがあった。文化が無料でいくらでも享受できる社会は、たやすく「文化が大切にされない社会」に転じてしまう危険を孕んでいる。
「音楽も映像も、無料がデフォルト」という感覚で育った世代が社会の中核になったとき、日本文化の恐るべき劣化が現出するのではないか。私はそのことをいまから憂うるものである。


まえはら・まさゆき●1964年、栃木県生まれ。1年のみの編集プロダクション勤務を経て、87年、23歳でフリーに。著書に、『池田大作 行動と軌跡』(中央公論新社)、『池田大作 20の視点――平和・文化・教育の大道』(第三文明社)、『平和への道――池田大作物語』(金の星社)、『ガンディー伝――偉大なる魂・非暴力の戦士』(第三文明社)などがある。mm(ミリメートル)