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書評『平等について、いま話したいこと』――民主的熟議こそ不平等克服の鍵に

ライター
小林芳雄

不平等が生み出す社会の分断

 本書『平等について、いま話したいこと』は、欧米を代表する2人の知性が「平等」を巡って交わした白熱の議論を編集してまとめたものだ。
 一方の著者トマ・ピケティは、フランスの経済学者でパリ経済大学の教授を務める。著書『21世紀の資本』は700ページを超える大著であるにもかかわらず、日本でもベストセラ―となり話題を呼んだ。
 もう一方の著者マイケル・サンデルは、アメリカのハーバード大学の教授を務め、対話形式の授業の模様がテレビ番組『ハーバード白熱教室』として放送されたこともあり、日本でもっともよく知られている政治哲学者のひとりである。
 出自も思想的立場も異なる二人が行った対話なので、平等な社会の実現に関する議論には対立点がある。しかし、不平等がもつ問題点に関しては驚くほど意見が一致している。
 両者によれば現在世界に蔓延する不平等には、3つの側面があるという。機会の不平等、政治的不平等、尊厳の不平等である。
 そして、こうした問題の背景には現在の資本主義の在り方と、それを当然のことと思い込ませる能力主義というイデオロギーがあるという。 続きを読む

書評『西洋の敗北』――世界的危機の背景に宗教の消滅

ライター
小林芳雄

宗教ゼロ状態

 本書『西洋の敗北』は、ウクライナ危機を始めとする現在の世界の危機の原因を明らかにし、今後の世界の在り方を展望した、今もっとも注目すべき一書である。
 著者のエマニュエル・トッド氏は、ソ連崩壊やリーマン・ショックなどを次々に言い当てたことから、現代の予言者と形容されることもある。しかし、そうした予言は神がかり的な霊感によるものではない。歴史人口学と家族人類学に基づきデータを精緻に分析する、卓越した知性から生まれたものだ。
 現在の世界が置かれている危機的状況はロシアから生まれたのではなく、ましてやウクライナから生まれたものでもない。問題の本質は西側諸国(イギリス、フランス、アメリカ)の自壊現象である「西洋の敗北」にこそあり、そしてその原因は宗教消滅「宗教ゼロ」にこそある。世界各地の家族構造と人口動態に着目した独自の観点から、トッド氏は極めて大胆な議論を展開している。この「宗教ゼロ」に関する分析は、本書の白眉であり、理解するための重要な鍵である。 続きを読む

書評『賄賂と民主政』――贈収賄はなぜ悪いのかを考える

ライター
小林芳雄

贈りもの好きなギリシア人

 著者・橋場弦氏は古代ギリシア史を専門とする研究者である。本書『賄賂と民主政 古代ギリシアの美徳と犯罪』は歴史学の観点から賄賂の起源と謎を探求した意欲作だ。2008年に山川出版社から刊行されたものを再録したもので、そもそも「賄賂」と「贈りもの」はどこが違うのか、「賄賂」はいつから犯罪と見なされるようになったのか、といった問題を徹底的に掘り下げていく。
 本書をひも解きまず驚くのは、古代ギリシアでは「贈りもの」と「賄賂」を表す一般的な言葉が同じ「ドーラ」(dora)であるという点だ。「賄賂」は「贈りもの」の一種として考えられていた。

 こうした贈与互酬の慣行のなかに生きていたギリシア人にとって、贈与は単なる財・サービスの移動をもたらすのみならず、それを取り交わす当事者の間に濃厚な人間関係を成立させ、あるいは補強し更新した。贈与は人と人とを結びつける重要な要因であり、逆にそれを拒否することは、人間関係の断絶を意味した。(本書34~35ページ)

 贈与互酬というと難しく感じるが、簡単にいえば、相互に贈りものをすることだ。現在の日本でも、お中元やお歳暮、若者の間ではバレンタイン・チョコレートやクリスマスプレゼントの交換が行われている。古代ギリシアではこうした贈りものが盛んに行われていた。
 さらに、エリートの間では国内だけでなく国外の要人とも贈りものを交換する伝統があり、その交流は子孫の代にまで及ぶだけでなく、古代東地中海世界では富を循環させる重要な役割をも担っていたという。当時の宗教でも、神々との交流は供儀という贈りものを通じて行われると考えられていた。 続きを読む

書評『エラスムス 戦う人文主義者』――言葉を信じ、人間を信じる

ライター
小林芳雄

世界市民として生きる

 著者の高階秀爾氏は日本における西洋美術史研究の第一人者として知られる。専門はルネサンス以降の西洋美術史だが、日本美術や文学にも造詣が深く、著書や翻訳も多数ある。美術行政にも携わり国立西洋美術館をはじめとする要職も歴任し、昨年10月に逝去した。本書は、1972年から翌年にかけて著者が雑誌『自由』に連載したエラスムスの評伝をまとめたものである。
 デジデリウス・エラスムス(1466年もしくは1469年頃~1536年)はルネサンス期を代表する思想家、人文学者として知られている。だがその名声とは裏腹に、幼少期は決して幸福なものではなかった。
 オランダの聖職者の庶子としてこの世に生を受け、幼少期に伝染病によって両親を失う。長じて修道士となり、はじめは古典学に通暁した文学者として、次いで神学者として頭角を現した。宮廷文化人として生計を立てヨーロッパ各地を転々とし、生涯にわたって1か所に留まることはなかった。当時の知識人の共通言語であるラテンを使いこなし、名実ともに世界市民として生きたのである。
 特にイギリスに滞在中に結んだトマス・モアとの友情や神学者コレットとの出会いは、後に彼に大きな影響を与えた。 続きを読む

書評『中断される死』――医療現場から生死を問い直す

ライター
小林芳雄

死のジレンマとは

 著者はなかなかユニークな経歴の持ち主だ。救急車で人命救助の現場に向かう救命救急士だったが、職場の上司の勧めに従って医学大学へ通いER(救急室、救急外来)の医師となった。現在は、ICU(集中治療室)の医師であり、またジャーナリストでもある。
 本書は、これまで著者が悩んできた問題を解決するまでの過程を、医学の専門知識のない読者が理解できる文章で綴ったものである。多くの専門家へのインタヴューで構成されている。

 死のジレンマとは私たち医者が、いずれは必ず訪れる死を短期的に阻もうとしてテクノロジーを見境なく使った結果であると同時に、医療行為や死のプロセスから人間性を奪ってきたテクノロジーへの依存に対処し損ねたことにも起因している面がある。(本書80ページ)

 著者の心を悩ませてきた問題とは、本書で「死のジレンマ」「グレーゾーン」と言われているものだ。 続きを読む