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連載エッセー「本の楽園」 第157回 流れ雲旅

作家
村上政彦

 つげ義春が芸術院の会員になった。本人は年金がもらえるから、とお気楽なコメントをしているが、漫画家としては初となる。だから、クリエイターとして偉くなったのか、村上も権威には弱いのだな、とはおもわないでほしい。
 権威が漫画に頭を下げたのだ。どうぞ、会員になってください、と頼んだのだ。漫画少年として、子供時代を生きてきた身の上としては、なかなか痛快なものである。僕が漫画少年だったころ、漫画は低俗なものとされてきた。親は、漫画ばっかり読んで、と叱った。
 もちろん芸術の世界でも、漫画を芸術的な作品と見ることはなかった。子供だましの手すさびぐらいにしかとらえられていなかったのだ。評価などおこがましい、論じるにも値しない――そんな、あつかいだった。
            
 潮目が変わったのは80年代の後半あたりからか。一部の先見の明のある人々が、漫画こそ世界に誇れる日本のすぐれた文化だ、という見方をするようになった。漫画評論家を名乗る人物たちもあらわれた。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第156回 木と話す?

作家
村上政彦

 木と話すそうだ。木とは樹木の木である。大丈夫か? とおもった人は少なくないだろう。僕も、そうだった。特にプロローグの、明治神宮にいる樫の木のスダジイとのやりとりは、これは……と感じた。
 あるとき著者がスダジイに、そこでなにをしているのか尋ねたら、すごいエネルギーが返ってきたのだという。しかも、人間についての辛口な批評がふくまれたメッセージとともに。
 そこからスダジイのモノローグがつづく(これは著者がうけとった植物の思いを言葉に翻訳したものだ)。スダジイが言うには、日本にはいくつか国の錨(アンカー)になる場所があって、植物たちはそこへ地球の強い生命エネルギーを流すことで、自然のバランスを保っている。
 しかし人間はバランスを崩すようなことをする。つりあいを失ったところは蝕まれて、人間や動物が病むこともある。実は、人間も地球の生命エネルギーの場にいるのだが、それを意識することができず、地球の生命エネルギーに同調する力を失っている――。
 などなどとメッセージを伝えてくるのは、「木の魂の中でも、大元の魂」。そして、地球上の植物はすべてが大元の魂とつながっている。木にもいのちが宿っているのだ、という。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第155回 失踪願望。

作家
村上政彦

 80年代のなかばから90年代にかけて、シーナは僕のアイドルのひとりだった。シーナといっても、林檎のほうではない。誠のほうである。あちこちにあやしい探検隊として旅し、ぐゎしぐゎしビールを呑み、それを昭和軽薄体と称するかろやかな文章で書く。
『さらば国分寺書店のオババ』は、おもしろかったー。ただ、おもしろかったーという印象だけで、内容は、おそろしく本を大切にする、国分寺書店のオババのことしか憶えていない。
 そのころの僕は、まだヌーボーロマンの一味で、日本初のアバンギャルド小説を書くことに励んでいたので、シーナの書く文章は、大袈裟ではなく、衝撃だった。こんなふうに書いてもいいのかと驚かされた。
 それからしばらく、あまり僕はシーナの本を読んでいない。無意識のうちに影響を受けるのが怖かったのかも知れない。しかしあれから30年。シーナの新刊が出たと知ったので、もうそろそろいいだろうと、さっそく注文して読んでみた。
 愕然とした。シーナが77歳の喜寿だと? コロナで死にかけただと? そうか。僕も歳をとったのだから、当然のことか。それにしても、ああ、年月の流れは残酷だ。もう、シーナとは呼べない。ここからは椎名氏とする。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第154回 物語の危うさ

作家
村上政彦

 このコラムの先の回で、物語の楽しみ方の本を紹介した。そこには物語の効用も説かれていた。ここで取り上げるのは、それとは正反対の本だ。『ストーリーが世界を滅ぼす』。物語がいかに危険なものかを説いている。読んでみよう。

コミュニケーションを行うとき、私たちは必ず、空気のように実体のない言葉を使って、たとえわずかでも他人を動かし、世界を自分に都合よく再構成する

 これは物語のことをいっている。他人を動かすことを著者は、「なびかせる」という。そして、このように述べる。

 なびかせるのはコミュニケーションの主たる機能である。
 ストーリーテリングはコミュニケーションの一形態である。
 よって、ストーリーテリングの主たる機能もなびかせることである。

 僕らの周りには、物語があふれている。友人との冗談まじりの会話、TVドラマ、プロパガンダやCM、国家や宗教の神話などなど。なぜならそれは、

物語が他人の心に影響を与える唯一にして最強の方法だからだ。

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連載エッセー「本の楽園」 第153回 物語の楽しみ方

作家
村上政彦

 僕は10代の後半にフランスのヌーボーロマンの信奉者だった。どっぷりのめりこんで、アバンギャルドな習作をいくつか書いた。モデルになる小説は、それまで僕が読んできたどの小説とも違っていた。
 まず、手法の新しさが何よりの価値となっていた。起伏のある物語や練られた人物造形などというのは、化石のようにあつかわれた。僕もそうだった。しかし、あるとき、自分の書いているアバンギャルドな小説がつまらないとおもった。
 ちょうどガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだ時期で、僕はこの小説にヌーボーロマンよりも新しさを感じた。とりわけヌーボーロマンは物語をきらった。それがマルケスの小説には物語があふれている。僕は物語が好きだ。物語が書きたかったのだ。
 そのころ小説の死が真剣に語られていた。僕は、小説は死ぬかもしれないが、物語は死なない、と確信した。それでアバンギャルドな小説を書くことをやめて、物語のある小説を書き始めた。作家デビューをしたのは、それから2年後だった。 続きを読む