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本の楽園 第186回 半病人の時代

作家
村上政彦

 何かをしようとしても、なんか怠い、気分が乗らない――かといって、重い病をわずらっているわけでもない。いま、そんな人は多いのではないだろうか。
 僕は小説を書くことでたつきを得ている。ベストセラー作家ではないので、小説だけで暮らしは立たない。小説を書く営みを核にして、その周りに広がる細々した仕事をするのだ。このコラムも、そのうちのひとつだ。
 文章を書くのは、楽しい、とはいえない。どちらかといえば、苦行寄りである。いつも仕事をするときには、新聞を読んだり、日記を書いたり、なんらかの準備運動をして、弾みをつけないと、とりかかれない。
 しかし〆切があって、急いでいるときは、まず、仕事部屋へ重い足を運ぶ。気合を入れて、机の前に坐る。覚悟を決めて、パソコンの電源をオンにする。そして、えいやーっと一行目を書く。すると、だんだんエンジンが回転を始める。
 仕事って、たいていそんなものでしょう?
 でも、それができなくなった物書きは、干上がってしまう。『元気じゃないけど、悪くない』の著者は、そうなってしまった。 続きを読む

本の楽園 第185回 ミッキーは谷中で六時三十分

作家
村上政彦

 気になる作家がいて、一度作品を読んでみようとおもうのだけれど、なかなか手に取る機会がない。いや、機会はつくるものだから、手に取るまでの関心が動かないというべきだろうか。
 では、その作家が嫌いなのかと訊かれると、読んでないのだから応えようがない。やはり、手に取る機会がない、としかいいようがないのだ。そういう作家のひとりが、僕にとっては片岡義男だった。
『スローなブギにしてくれ』で野生時代新人賞をもらってデビューした作家ということぐらいしか知らなかった。この小説を原作にした映画もTVのロードショーで観た。映画は率直にいって、あまりおもしろいとはおもわなかった。
 いつもの僕なら原作を取り寄せて比べてみるぐらいのことはしただろう。けれど、このときは、そうしなかった。なぜだかは分からない。それからもう30年近い歳月が流れている。
 そして、最近になって、発作的に片岡義男の小説本を買った。『ミッキーは谷中で六時三十分』だ。これは明らかにタイトル買いだった。見た瞬間に、買わなければ、とおもった。 続きを読む

本の楽園 第184回 戦争語彙集

作家
村上政彦

 去年の2月だったとおもう。ロシア・ウクライナ戦争が始まって1年が過ぎて、文学に何ができるか? というシンポジウムの司会進行を務めた。結論で、ロシア・ウクライナ戦争は、物語の戦争でもあると述べた。
 ロシアは、ファシストの支配から同胞を救う解放者の物語。ウクライナは、祖国への侵略者から同胞を守る英雄の物語。どちらもそれぞれの正義をかざして、この物語を駆動力として戦争をたたかっている。
 文学は、このふたつの物語を解体できるカウンターストーリーを物語ることができるか? 文学を生業とする者として、それをかんがえてゆきたい――このシンポジウムの内容は、『すばる』(集英社)に掲載されたので、興味のある人はそちらをご覧いただきたい。
 さて、そのとき、僕はロシアとウクライナの駆動力になっている物語に対抗するには、もっと大きな物語が必要だと考えていた。その後、考えをあらためた。必要なのは、ひとりひとりの個人に根差した「小さな物語」なのだ、と。 続きを読む

本の楽園 第183回 パッキパキ北京

作家
村上政彦

 久し振りに痛快な小説を読んだ。帯のコピーに「一気読み必至」とあるけれど、ほんとうに一気読みをした。まあ、長さが手頃だということもある。大長篇ならいくらおもしろくてもそうはいかない。
『パッキパキ北京』――作者の綿矢りささんは顔見知りである。だからといって、大甘の評をかくつもりはない。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公は、小説家との関係は、作品を読んでおもしろかったら、と感想を電話できるようだといい、というようなことを言っていた。
 僕と綿矢さんは、そういう親しい関係ではないが、とにかく顔見知りだ(これは自慢です)。日本文藝家協会という物書きの団体があって、僕は常務理事をしている。文壇の大家だからではない。そういう役回りがめぐってくる年齢なのだ。
 綿矢さんは理事だ。だから、月に一度の理事会で顔を合わせる。会合が終わると、食事が出るので、同じテーブルで食べる。そのとき、たまに言葉を交わす。『パッキパキ北京』を読んだときは、主人公のキャラクターが良かったですよ、あれは綿矢さんですよね、と訊いたら、似たような経験をしているので……と答えがかえった。 続きを読む

本の楽園 第182回 河井寛次郎の残した言葉

作家
村上政彦

 民藝を知ったのは、普通の小説を書き始めてからだったとおもう。若いころの僕は古美術の類にほとんど興味がないので、その方面にはうとかった。同時代のアートには、大いに関心を持っていた。僕の10代のころのアイドルは、マルセル・デュシャンだった。
 デュシャン以降のアートについても、アメリカのポップアート、ヨーロッパのアバンギャルドと、広く目配りをしていた。僕は、小説を書いていたが、ジャンルは違っても、同時代の表現者たちが、どのような仕事をしているのかは、知っておかなければならいとおもったし、実際に刺激も受けた。
 だから、いちばん最初に仕上がった小説は、大判の写真を額装にして、詩のような文章がついていた。つてを頼ってある雑誌の編集者に見せたところ、時代から一歩踏み出すと、人はついて来られない、踏み出すのは半歩ぐらいで、ちょうどいいのだ、といわれた。
 確かに、この小説は誰にも認められなかった。でも、僕自身は満足だった。新しい小説を書いたと胸を張っていた。一歩どころか、二歩も、三歩も、踏み出してやる、と意気込んでみせた。
 僕は、自分なりの文学理論を構築して、それに基づいて作品作りをしたのだ。けれど、その編集者は苦笑いして、それもたいしたものではないよ、といった。僕はジェームズ・ジョイスが、家族の臨終の際、祈ってくれ、と願われて、無神論者だからできない、と拒んだ例を挙げた。
 それなら好きにすればいいのでは、と返されて、僕は彼に礼をいって去った。本当はさびしかった。理解者がいないのは辛い。ひとりでもいいから、おもしろい、といってくれる人がいれば、僕はどんどん新しい小説を書き続けただろう。 続きを読む