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連載エッセー「本の楽園」 第97回 公の時代

作家
村上政彦

 アメリカの作家カート・ヴォネガットが、こう語った。

芸術に果たしてどんな効用があるのか

わたしが思いつく最も肯定的な理念は、〈坑内カナリア芸術論〉と勝手に名づけているものです。芸術家は非常に感受性が強いからこそ社会にとって有用だ、という理論です。彼らは超高感度ですから、有毒ガスが充満している坑内のカナリアよろしく、より屈強な人々が多少とも危険を察知するずっと前に気絶してしまいます

 かつて石炭を掘るとき、工夫たちは有毒ガスから身を守るためにカナリアを連れて行った、といわれる。ヴォネガットは芸術家を、そのカナリアにたとえている。この場合の芸術には、もちろん文学も含まれる。
 ヴォネガットがこの講演を行ったのは1969年。もう、半世紀も前から文学・芸術などは、役に立たないという批判があったわけだ。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第96回 ポストヒューマニズムの時代

作家
村上政彦

「人新生」(じんしんせい)とは、地質学的な時代の区分のひとつだが、まだ学問的には正式に認められていないようだ。しかし、このところよく見聞きする言葉だとおもう。ざっくりいうと、人類が地球の環境に影響を与えるようになった時期、ということになるのだろうか。
 僕はこの言葉に、何だか人間の驕りを感じて、あまり好きではなかった。まあ、提唱した人々の意図としては、人間の横暴なふるまいへの警告もあったのだろう。いや、そちらのほうに比重があったのだとおもう。しかし、それにしても――。
 かつて、人間は自然を畏れた。そこには自分たちを生かしてくれる自然への、敬いがあった。ところが、いつからか自然を征服すべき対象と見るようになって、敬いどころか、どれだけ搾り取れるかの算段しかなくなった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第95回 短章集

作家
村上政彦

 詩人・永瀬清子の名を知ったのは、いつのころだったろうか? 詩はときどき眼にしていたが、『短章集』という作品のことは知らなかった。たまたま手に取った若松英輔の著作で、詩を学ぶための必読書として取り上げられていて、読んでみたらおもしろかった。
 詩でもない。エッセイでもない。覚書でもない。小説でもない。哲学書でもない。――しかしそのいずれでもある作品だ。

 一寸した小話に心ひかれて書きとめる事がある。そしてそれはなぜと云うことまではわからない。ただ私の何かがその話に思いあたるのだ。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第94回 いのちを刻む

作家
村上政彦

 木下晋を知ったのはNHKの特集番組だった。パーキンソン病に冒された老妻を鉛筆で描きながら、

人が壊れていくと、ひび割れた隙間から、魂が見えてくる

と呟いていた。それは、僕にとって深く印象に残る言葉だった。
 本屋をパトロールしていたら、木下晋の自伝があった。迷うことなく、レジへ持って行った。帰って読んでみると、期待にたがわずおもしろかった。まず、画家の半生がひとつの作品になっている。
 木下は、1947年に富山で生まれた。父はとび職で、母は知的障害があって、何度も家出して各地を放浪した。極貧の家庭に生まれた彼は、

ただ生き抜くため、画家としての人生を選んだ

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連載エッセー「本の楽園」 第93回 宛名のある詩

作家
村上政彦

 第86回で、若松英輔の詩論『詩と出会う 詩と生きる』を取り上げた。今回は、彼が書いた詩を読んでみたい。
 若松は、きちんと詩を読めるようになるには、自分が実作しなければならないという。 上手な詩を書こうとおもわないでいい。そういう気負いを捨ててしまえば、思いのほか気楽に詩を書くことができる――そう読者に呼びかける。
 若松の第三詩集『燃える水滴』が手元にある。ページを繰って読んでみると、実にすらすらと読める。ほとんど引っかかるところがない。これは現在の詩のトレンドである「現代詩」と呼ばれる詩たちとは、対極にあるようにおもえる。 続きを読む