本の楽園」タグアーカイブ

連載エッセー「本の楽園」 第102回 ミンジュン・アート

作家
村上政彦

 韓国でもっとも有名なアートは何だろうか?
 僕は韓国・ソウルの在韓日本大使館の前に据えられた「少女像」だとおもう。韓国人はもちろん、日本人の多くが知っている。その姿は、欧米にも伝わった。
 このようなアートを、韓国では、民衆美術(ミンジュン・アート)と呼んでいる。それは――

一九八〇年代、韓国の反独裁民主化運動と呼応して生まれた美術運動であり、独裁政権の継続および急速な産業化・社会構造の変化によって顕在化した政治的抑圧と社会的矛盾を、「歴史の主体は民衆である」という立場から表現しようとしたリアリズム美術(『韓国の民衆芸術』より)

 つまり、民衆美術とは、極めて政治と関わりの深いアートなのだ。そのせいか、韓国国内でも長くアートとしては冷遇されてきた。正当に評価をされるようになったのは、1990年代になって民主政権が誕生してからだという。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第101回 詩の読みようについて

作家
村上政彦

 某大手書店の偉い人と会食をしたとき、「文学は売れません」と断言された。分かってはいたが、読者にいちばん近い現場の人に言われて、あらためてがっかりした。しかしその人は続けて、「ところが茨木のり子は売れるんです」と言う。
 茨木のり子は詩人だ。僕も名前は知っているし、何篇かの詩は読んだ記憶があった。ただ、日本において、詩は、小説よりも、さらに売れないジャンルである。海外では、詩が売れる国もあると聞く。
 しかし、日本では、詩が売れる、と聞いたことはない。僕は、茨木のり子に関心を持った(そりゃそうでしょう)。そして、家に帰って書庫にあった彼女の本を探した。『詩のこころを読む』という本があった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第100回 身体知について

作家
村上政彦

 いずれAI(人工知能)が人間を超えるという見方がある。僕は、そういう考えを見聞するようになって、身体に興味を寄せるようになった。AIは、いわば機械的な脳だ。そこに身体はない。人間は身体を持っている。これが知に影響を与えることはないのか?
 身体知についての本を何冊か読んだなかで、いちばんおもしろかったのが、『「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知学』だった。サブタイトルを見ないと、一見、ビジネス書のようにおもえる。編集者の苦心が窺えるタイトルだ。確かに、「身体知の認知学」だけでは、僕のような読者しか手に取らないだろう。
 でも、読みだしたら、ほんとにおもしろい。専門書のような難解さはかけらもない。「はじめに」で身体知について定義がある。

「身体知」とは、身体と頭(ことば)を駆使して体得する、身体に根ざした知のことです

続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第99回 コロナが奪ったもの、与えたもの

作家
村上政彦

 親しくしている作家からコロナ見舞が届いた。巣籠り生活で、どっさり本を読んだだろうから、意見交換しないか、というものだった。さっそく、最近になって手に取った本を棚卸した。
 そのうちの1冊が、『コロナの時代の僕ら』だ。著者は、まだ若いイタリアの作家パオロ・ジョルダーノ。ある新聞に書いたコロナについてのエッセイに反響があり、日々の記録をエッセイ集としてまとめた。

僕はこの空白の時間を使って文章を書くことにした。予兆を見守り、今回のすべてを考えるための理想的な方法を見つけるために、時に執筆作業は重りとなって、僕らが地に足をつけたままでいられるよう、助けてくれるものだ。でも別の動機もある。この感染症がこちらに対して、僕ら人類の何を明らかにしつつあるのか、それを絶対に見逃したくないのだ

続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第98回 世界を変える美しい本

作家
村上政彦

 本が売れない、本が読まれない――出版関係の仕事をしているものでなくとも、この言葉は、もう、聞き飽きた。しかし、出版界の実態を見てみると、確かに、売れない、読まれないことは事実だが、それでも本に関わる仕事をしたい、という人がいる。
 最近、「一人出版」というやり方で、出版界に参入してくる人がいる。ほんとに1人で、あるいは数人で、出版社を営む。そういうところから出版される個性的な本は、コアな読者がいて、ある程度は売れる。つまり、読まれる。
 これは本屋も同じだ。ちゃんと目利きをして、自分が売りたい本で棚をつくり、主人の個性が際立っている本屋には、やはり、コアな買い手がいて、ある程度は売れる。つまり、読まれる。 続きを読む