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連載エッセー「本の楽園」 第137回 ひとりで死んだ、ぼく

作家
村上政彦

 20歳になったとき、僕は遺書を書いていた。死のうとおもっていたのだ。興奮して一睡もせずに何やら次々と文字を書き連ねて、気がついたら朝になっていた。書き終わって読み返したら、憑き物が落ちたようにきょろりとして、なぜ、あんなに興奮していたのか、死のうとまで思いつめたのか、自分でもよく分からなかった。結局、僕は死ななかった。
 おかげで、ずっとあとになるが、いまの妻と巡り会って大恋愛をし、文学新人賞をもらって作家デビューを果たした。あのとき、死ななくてよかった、と心からおもう。若気の至りで命を絶っていたら、いまの幸せ(そう、僕は幸せである)はなかった。
 今回取り上げる絵本『ぼく』は、僕の好きな詩人・谷川俊太郎さんの文章に、谷川さんの指名した若いイラストレーター・合田里美さんが絵を描いた。テーマは重い。子供の自死だ。小学生の男の子がみずから命を絶つというストーリーである。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第136回 マーサ・ナカムラの世界「小説」

作家
村上政彦

 文芸誌は儲からない。ある大手誌の編集長が月に800万円の赤字が出る、年間で1億円だ、とこぼしていたそうだ。それでも、大手出版社が文芸誌を出し続けるのは、自分たちが出版人であることのアイデンティティーを保ちたいからだろうとおもう。
 僕ら小説家も儲からない。それでも小説を書くのは、書かなければ小説家でなくなるからだ。僕は小説に救われた。小説に生かされている。小説家のほかに仕事を考えつかない。だから、小説を書く。出版社も似たような事情だろう。
 というわけで、書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)という出版社から、この時勢に新しい文芸誌が生まれた。
『ことばと』。編集長は、批評家で、最近、小説を書き始めた佐々木敦だ。書肆侃侃房、新しい文芸誌、佐々木敦という組み合わせから、これは買いでしょう、とおもっていたら、なんとマーサ・ナカムラの短篇小説が掲載されていた。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第135回 マーサ・ナカムラの世界「詩」

作家
村上政彦

 僕がマーサ・ナカムラの詩を読んだのは、読み手として信頼している荒川洋治さんが褒めていたからだ。もうずいぶん前、ある文芸誌に短篇の連作をしていたころ、荒川さんが地方紙の文芸時評(だったとおもう)で取り上げて、褒めてくれた。
 それ以来、僕は荒川さんに勝手に好印象を持ち、読み手として信頼を置くようになった。そう。僕は単純な男である。その人が、マーサ・ナカムラの『狸の匣』(たぬきのはこ)という詩集を褒めていた。これは読まねばならない。
 僕はさっそく取り寄せて読んでみた。おもしろい。マーサ・ナカムラは、どうやら若い女性らしい。若い詩人の詩集を読んで、おもしろい、とおもうことは、あまりない。最近だと山田亮太の『オバマ・グーグル』がおもしろかった。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第134回 パムクの文学講義

作家
村上政彦

 ハーバード大学には、「ノートン・レクチャーズ」と呼ばれる詩の連続講義がある。これはひとりの講師を教授として招いて、毎年開かれている。講師の顔ぶれがすごい。T・S・エリオット、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ウンベルト・エーコなどの世界的な詩人、小説家ばかりか、ベン・シャーン、イーゴリ・ストラヴィンスキー、レナード・バーンスタイン、ジョン・ケージなど、名だたる画家や音楽が教壇に立ってきた。
 トルコの小説家オルハン・パムクも、そこに名を連ねた。彼がノーベル文学賞を受けたのが2006年。「ノートン・レクチャーズ」に招かれたのは、その3年後だった。ハーバード大学の学生が羨ましい。ボルヘスやエーコの講義は、僕も聴きたかった。もちろん、パムクの講義も。
 ま、本という便利なものがあるお陰で、ハーバード大学の学生でなくとも、内容を知ることはできる。こっそり、パムクが講義をしている様子を見てみよう。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第133回 優しい語り手

作家
村上政彦

 オルガ・トカルチュクは、2018年度のノーベル文学賞を受けたポーランドの女性作家だ。僕はそれまで彼女の存在を知らなかった。僕の目配りが悪いこともあるのだろうが、それより世界は広くて、まだまだすぐれた未知の作家が多いというほうが正しいだろう。
 もう、ずいぶん前に安部公房がテレビの番組で、エリアス・カネッティがノーベル文学賞を受けるまで知らなかった、自分の不明を恥じる、と述べていたことがあって、彼ほどの作家でも、そうなんだ、とおもった。
 だから、僕がオルガ・トカルチュクを知らなかったことは、当然、と開き直っておこう。しかし、そのまま読まないのは、作家としては怠慢なので、さっそく、邦訳のある本を取り寄せた。 続きを読む