かつてこのコラムで書いたかも知れないけれど、作家デビューする前の僕は、フランスのヌーボーロマンなどの影響で、前衛的な小説を書いていた。写真とキャプションを組み合わせて、これが自分の小説だと胸を張っていた。
ところが、僕は前衛から降りた。きっかけは物語だ。ヌーボーロマンなどの前衛は、物語を否定した。僕は、物語こそが、小説のいちばんおいしいところではないか、と考えた。前衛は、「小説の死」を主張していたが、僕は、小説は死んでも、物語は死なない、という結論に達した。それで前衛を降りて、物語を書き始めた。
物語とは何か? これは一言では片づけられない。人間は世界を物語として認識する。たとえば、今日一日。もっと長いスパンでとらえれば、自分の生涯。人間は、始まりがあって、途中の過程があって、結末がある、というかたちで、さまざまな出来事を整理する。
だから、小説家でなくても、人間であるかぎり、誰もが物語をつくっているといえる――というようなことを考えていたら、こんな本と出会った。『物語の役割』。著者は、『海燕』新人文学賞で、僕より少しあとにデビューした小川洋子だ(いまや欧米の読書界でも活躍している)。 続きを読む
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連載エッセー「本の楽園」 第146回 本当に頭のいい人とは?
頭がいい、といわれてうれしくない人はいないだろう。けれど、頭のよさとは何か? と考え始めると、よく分からなくなる。
僕には、「3バカ」が社会を悪くするという自説がある。
まず、IQバカ。これは、いわゆるお勉強がよくできて、高学歴なのだが、世間の常識にうとかったり、人の心が分からなかったりするバカだ。次に、筋肉バカ。腕力だけが自慢で、物事をあまり考えないバカのこと。そして、権力バカ。権力を持ったとたんに、自分が偉くなったと勘違いして、あちこちに迷惑をかけるバカである。
この3バカは、頭がいいとはおもえない。和田秀樹さんが、IQバカのことを「高学歴バカ」と呼んでいるのを読んで、僕は自説に力を得た。和田秀樹さんと中野信子さんが、『頭のよさとは何か』という本を出した。「高学歴バカ」は、その本に出てくる。
僕は、高校を2度も中退し、いろいろあって大学へ入り、在学中に新人賞をもらって、小説家としてデビューしたので、大学はそのままになった。恐らく、授業料未納で除籍となっているから、正式な学歴は高校中退だ。
こういう人間が「高学歴バカ」なんていうと、ひがみだとおもわれるが、和田さんは、灘中・高を経て、東大理Ⅲに入った高学歴の持ち主だから、素直に聴けるだろう。ちなみに、中野さんも東大出身だ。東大出身のふたりが、頭のよさとは何かについて語り、「高学歴バカ」なんていっているのだから、読まないわけにいかない。 続きを読む
連載エッセー「本の楽園」 第145回 生きるための現代思想入門
まだ小説家としてデビューする前、習作を書くのに考えたことがあった。それは、いま僕らが生きているのは、どのような時代か、また、どのような世界か、ということだ。それを知らないでは、切れば血の出るような小説(中上健次がよくいった言葉です)は書けない。
僕がやったことは、片っ端からそれが分かるような本を読み漁ることだった。そして、英語もろくにできないのに、ニューヨークタイムズのブックレビューを注文し、フランス語なんてアベセぐらいしかできないのに、ル・モンドを買った。
そうした読書のひとつにフランスから輸入された現代思想があった。ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーなどが、次々に翻訳され、僕はそれを手に取った。すべてが新鮮だった。しかし難解だった。僕がどれほど理解できていたか、怪しいものだ。
千葉雅也の『現代思想入門』を読んで、なるほど、哲学のプロはそのように読むのか、と得心した一方、あれほど難解だとおもっていた現代思想を生きるために活用するという態度に共感した。 続きを読む
連載エッセー「本の楽園」 第144回 中国の現代文学
閻連科(えんれんか)――中国の現代文学に関心のある人なら、一度は耳目に触れた名ではないかとおもう。僕は、この小説家の書く作品が好きで、何冊かは読んでいる。そして感心した。
僕はそれほど詳しいわけではないが、中国には、何人かすごい小説家がいる。90年代には、ラテンアメリカ文学のブームがあったけれど、もし、日中韓などを核にして、東アジア文学のようなムーブメントが起きたとしたら、ラテンアメリカ文学のガルシア・マルケスに匹敵するのが、閻連科ではないか。
彼の小説は、だいたいスキャンダラスだ。母国では禁書扱いにされている作品もある。でも、そういう小説家の書くものは、体制とスリリングな関係にあるからこそ、おもしろい。読む価値もある。
ところが、本作『年月日』は、閻連科自身が、この作品は自分が書くほかの小説とは違っている、閻連科はこのような小説も書くのだと知ってほしいといっている。もちろん、力強い文章の運びや物事の本質を射抜く眼の働き方は、やはり、閻連科の小説だ。 続きを読む
連載エッセー「本の楽園」 第143回 令和の家族小説
僕が小説を書き始めたころ、アイドルは中上健次だった。一度、人を介して会いたいといわれたことがあったのだが、酒場への呼び出し出しだったので、生意気にも断ってしまった。中上健次は特別な存在だったから、そういう会い方をしたくなかったのだ。
できれば、文芸誌の対談とか、ちゃんとした会い方をしたかった。その後、しばらくして中上は大病を患って亡くなった。僕はそれまでに彼と対談をするほどの出世はできなかった。あー、どうしてあのとき、会っておかなかったのだろう、といまでも溜め息が出る。
小説家・中上健次の名が大きく世に出たのは、『岬』という小説が芥川賞をとったからだった。この作品は、一種の家族小説と読める。主人公の秋幸は土方である。土をめくり、汗を流し、飯を食う――そんな単純な生き方を心地よいとおもっている。
ところが、秋幸の家族関係は複雑だ。彼が、「あの男」と呼ぶ実父には、ほかにも2人の情婦がいて、子供も産んだ。彼の母は、そんな夫と別れ、誠実な男と再婚した。男には連れ子が一人いた。
つまり、何人かの腹違いのきょうだいと血の繋がりのないきょうだいがいる。秋幸はそういうしがらみをうっとうしいと感じている。特に血縁はわずらわしく、人を縛る。こういう血のしがらみを描いた家族小説は、昭和だとおもう。 続きを読む