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本の楽園 第196回 辻小説

作家
村上政彦

 紙面は藁半紙なのか、経年劣化で変色し、少しでも雑にあつかえば、ぼろぼろと崩れてしまいそうな趣だ。昭和18年に出版された社団法人日本文学報国会編『辻小説集』である。
 奥付を見ると、「初版発行 昭和十八年八月十八日」とある。部数は「一万部」。「定価一円四十銭」。227ページの薄い本。緒言を書いた久米正雄によると――

南海に於ける帝国海軍の輝かしい日々決戦の戦火と、凄まじい死闘の形相、一度国民に伝わるや、吾等は満眼の涙を払って、この前線将士の優先奮闘に感謝すると共に、皆を決してその尊き犠牲に対する報賞をなすべく立上がった

 冒頭から勇ましい言葉が並んでいるが、これは第2次大戦の末期に日本文学報国会に属する文学者たちが、原稿用紙一枚に戦意を昂揚させるエッセイや物語を書いて、文章でお国のために役立とうとする書物である。 続きを読む

本の楽園 第195回 言葉にできること

作家
村上政彦

 一冊の詩集に出会った。『道』と題された冒頭の詩を引いてみよう。

そこは緑したたる谷間
道はなかば草におおわれ
花をつけはじめた楢の木立ちをぬけて
学校帰りの子供たちが家路をたどる

 穏やかで、健康な光景が見える。この詩は子供の視点から彼らの生活を書いている。『窓からの眺め』を引く。

いくつもの塔がほら 色とりどりの街の上に映え
いくすじもの細い流れが銀色の糸となってからみあい
山の月が鵞鳥の羽根毛のように
あそこもここも 大地を覆っている

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本の楽園 第194回 遅ればせながら、鶴見俊輔生誕百年

作家
村上政彦

 鶴見俊輔を知ったのは、「限界芸術」という彼のアイデアに出会ったからだった。
『限界芸術論』によれば、芸術には、純粋芸術(一般に芸術と呼ばれている作品)、大衆芸術(俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられる作品)、限界芸術(両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品)の3種類がある。
 鶴見は、宮沢賢治を限界芸術の実作者ととらえている。そのことが、多くの人に受け容れられ、しかも豊かな芸術性を備えている文学を構想していた僕にとって、大きな触発となった。
 また、日本では小学校しか出ていないのに、渡米してハーバード大学で学んで、図書館でアルバイトをしているとき、ヘレンケラーと出会い、「私はいまunlearnしている」といわれて、unlearnを「学びほぐす」と訳し、人は学びほぐすことが必要だと説いたことにも教えられた。
 それから僕は、鶴見俊輔の仕事に注目するようになったのだけれど、彼が詩を書いていたことは知らなかった。『もうろくの春 鶴見俊輔詩集』――さっそく注文した。 続きを読む

本の楽園 第193回 生きのびるための事務

作家
村上政彦

 坂口恭平という人物を意識したのは、2011年の福島原発事故があって、何人かの文学者が集まった席だった。当時、彼が出版した『独立国家のつくり方』という新書を話題にした編集者がいて、あ、それは僕も知ってる、とおもった。ただ、読んではいなかった。
 後日、読んでみたら、著者の問題の設定は、新しい社会をどのように構築するか、というより、僕らがどのように生き方を変えてゆくか、に重心がある、と感じた。社会を変える思想や試みは珍しくないけれど、そのためには、まず、個人の生き方を変えねばならないという。
 当然のことを、社会を変えるための実践として説いているところに関心を持った。同じことを考えていたからだ。人間が変わらなければ、社会は変わらない。そのためには、どうすればいいのか?
 坂口は、あなた自身が変わることですよ、と呼びかけているようにおもえた。僕も同じだった。まず、僕が変わらなければ、社会は変わらない、と考えていた。かなり齢はちがうけれど、坂口は仲間だとおもった。 続きを読む

本の楽園 第192回 日付のある文章

作家
村上政彦

 10代のころから日記をつけている。といっても、永井荷風のように戦争中は戦火で焼かれないように風呂敷包みにして避難するほど大切にしたわけではない。「欺かざるの記」と称して、文学青年風の日記をつけて、少しばかり気取っていたのだ。
 高校の入学祝いに、親しい友人から梶井基次郎の全集を贈られて、彼の日記を毎日読んだ。梶井は30歳で亡くなっているのだが、商業誌に書いたことがほとんどなく、作品を発表する媒体はたいてい同人誌だった。けれど、生活は作家そのものだった。
 僕はそれに憧れて、梶井の日記を読んで、作家の生活をまねた。確か、太宰治の『人間失格』に、上京して大学の友人から教わったのは、酒と煙草と女とマルキシズムだった、というようなことを書いていた気がするが、僕は梶井の日記から、文学者の在りようを学んだ。
 日記はおもしろい。日本文学には古くから日記文学の伝統があるけれど、文学者だけでなく、市井の人の書いたものでも、そこに人の暮らしや、時代の空気があって、興味を惹かれる。
 坪内祐三の『日記から 50人、50の「その時」』は、小説家、詩人、学者、政治家、官僚、レーサーなど、さまざまな人物の日記から構成されている。もっともいちばん多いのは文学者だけれど、作家は日記をつけるのが仕事にもなるのだから自然なことだろう。 続きを読む