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『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第64回 正修止観章㉔

[3]「2. 広く解す」㉒

(9)十乗観法を明かす⑪

 ③不可思議境とは何か(9)

(7)化他の境を明かす①

 「不可思議境を明かす」段は、七段から構成されているが、今回はその第三段の「化他の境を明かす」から説明する。
 前段の「自行の境を明かす」の結論部分は、一念三千については、言語表現の方法はなくなり、心の働く範囲は消滅するので、思議を超えた対象界と名づけられるというものであった。しかし、言葉も心も超えて表現できない(不可思議)というばかりでは、他者を教化することはできないので、四悉檀という理由があれば、さまざまに説くことができることを、『摩訶止観』は、

 『大経』に云わく、「生生も説く可からず、乃至、不生不生も説く可からず。因縁有るが故に、亦た説くことを得可し」と。四悉檀の因縁を謂うなり。四句は冥寂(みょうじゃく)なりと雖も、慈悲もて憐愍(れんみん)して、名相無き中に於いて、名相を仮りて説く。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、582-584頁)

と示している。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第63回 正修止観章㉓

[3]「2. 広く解す」㉑

(9)十乗観法を明かす⑩

 ③不可思議境とは何か(8)

(6)自行の境を明かす②

 この質問に対する答えのなかに、前述したように、地論宗と摂論宗の考えを紹介し、批判している。やや長文であるが、引用する。

 答う。地人(じにん)の云わく、「一切の解惑・真妄は、法性に依持(えじ)す。法性は真・妄を持し、真・妾は法性に依るなり」と。『摂大乗』に云わく、「法性は惑の染(ぜん)する所と為らず、真の浄むる所と為らず。故に法性は依持に非ず。依持と言うは、阿黎耶(ありや)是れなり。無没(むもつ)の無明は、一切の種子(しゅうじ)を盛持(じょうじ)す」と。若し地師(じし)に従わば、則ち心に一切法を具す。若し摂師(しょうし)に従わば、即ち縁に一切法を具す。此の両師は、各おの一辺に拠る。若し法性は一切法を生ぜば、法性は心に非ず、縁に非ず。心に非ざるが故に而も心は一切の法を生ぜば、縁に非ざるが故に亦た応に縁は一切法を生ずべし。何ぞ独り法性は是れ真・妄の依持なりと言うことを得んや。若し法性は依持に非ず、黎耶(りや)は是れ依持なりと言わば、法性を離れて外に、別に黎耶の依持有らば、即ち法性に関わらず。若し法性は黎耶を離れずば、黎耶の依持は、即ち是れ法性の依持なり。何ぞ独り黎耶は是れ依持なりと言うことを得ん。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、578-580頁)

と。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第62回 正修止観章㉒

[3]「2. 広く解す」⑳

(9)十乗観法を明かす⑨

 ③不可思議境とは何か(7)

(5)一念三千②

 さらに、一念心(一瞬の心)と一切法の関係を、「生」、「含」という用語で捉えることについて、次のように説明している。

 今の心も亦た是の如し。若し一心従り一切の法を生ぜば、此れは即ち是れ縦なり。若し心は一時に一切の法を含まば、此れは即ち是れ横なり。縦も亦た不可なり、横も亦た不可なり。秖だ心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なり。故に縦に非ず、横に非ず、一に非ず、異に非ず、玄妙深絶(げんみょうじんぜつ)にして、識の識る所に非ず、言(ごん)の言う所に非ず。所以に称して不可思議境と為す。意は此に在り、云云。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、576頁)

と。ここでは、一心から一切法を生ずる場合を縦とし、心が同時に一切法を含む場合を横とし、そのうえで、縦も横も否定している。そして、心は一切法であり、一切法は心であると述べ、一心と一切法との関係は縦でもなく横でもなく、同一でもなく相違するのでもないとしている。これを奥深く微妙で、極めて深遠であり、心で認識できるものでもなく、言葉で表現できるものでもないと述べ、それを不可思議境と呼んでいる。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第61回 正修止観章㉑

[3]「2. 広く解す」⑲

(9)十乗観法を明かす⑧

 ③不可思議境とは何か(6)

(4)十如是——類に随いて釈す②

 十如是を、三悪(地獄・餓鬼・畜生)、三善(阿修羅・人・天)、二乗(声聞・縁覚)、菩薩・仏の四つのグループに分けるうち、第四の菩薩・仏の十如是については、『摩訶止観』巻第五上に、

 縁因を相と為し、了因を性と為し、正因を体と為し、四弘を力と為し、六度万行を作と作し、智慧荘厳を因と為し、福徳荘厳を縁と為し、三菩提を果と為し、大涅槃を報と為す、云云。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、572頁)

と述べている。縁因仏性を相とし、了因仏性を性とし、正因仏性を体とし、四弘誓願を力とし、六度(六波羅蜜)を根本とするすべての行を作とし、智慧による荘厳を因とし、福徳による荘厳を縁とし、正しい覚りを果とし、大涅槃を報とするといわれる。ここには、いわゆる三因仏性が出ている。正因は理、了因は理を照らす智、縁因は智の補助となる善行をそれぞれ指す。
 以上、四つのグループにおける十如是を説明した。『摩訶止観』には、追加の説明として、因・縁に逆と順があるとして、界内の生死に順じる場合、有漏の業を因とし、愛・取などを縁とすること、界内の生死に逆らう場合は、無漏の正慧を因とし、行行(助行)を縁とすることが示され、いずれの場合も分段の生死を滅すると述べられている。 続きを読む

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創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第60回 正修止観章⑳

[3]「2. 広く解す」⑱

(9)十乗観法を明かす⑦

 ③不思議境とは何か(5)

(3)十如是——総じて釈す③

 第七に「如是縁」については、「如是縁とは、縁は縁由(えんゆ)に名づく。業を助くるは、皆な是れ縁の義なり。無明・愛等は、能く業を潤す。即ち心を縁と為すなり」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。縁は「縁由」、つまり物事の由来、理由という意味である。業=因を助けることは縁の意味である。無明、渇愛などは、業を潤す(草花に水を与えて果実を実らせるように、業に影響を与えて苦果を生み出すこと)ことができるので、心を縁とするといわれる。
 第八に「如是果」については、「如是果とは、剋獲(こくぎゃく)を果と為す。習因は前に習続し、習果は後に剋獲す。故に如是果と言うなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。獲得することを果とするといわれる。習因は前において重なり続き、習果は後において獲得されるので、如是果というのであるといわれる。習因・習果については、 因果関係において、因が善ならば果も善、因が悪ならば果も悪、因が無記ならば果も無記である場合、因を習因(新訳では同類因)、果を習果(新訳では等流果)という。 続きを読む