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芥川賞を読む 第49回 『きことわ』朝吹真理子

文筆家
水上修一

記憶を行き来する中で霞む存在の危うさ

朝吹真理子(あさぶき・まりこ)著/第144回芥川賞受賞作(2010年下半期)

多くの選考委員がその才能を評価

 前回取り上げた「苦役列車」とダブル受賞となったのが、朝吹真理子の「きことわ」だった。当時26歳。詩人で慶応大学教授の朝吹亮二の娘であり、フランソワーズ・サガンの翻訳を多く手がけた朝吹登水子を大叔母に持つという、いわばサラブレッドということもあって、受賞前から多くの関心を集めたようである。実際、選考会では少しの難点を指摘する声を除いて、多くの選考委員がその才能を高く評価している。

 主人公は永遠子(とわこ)と貴子(きこ)。初めての出会いは永遠子が15歳、貴子が8歳。貴子の両親が所有する葉山の別荘を管理していたのが逗子に住む永遠子の母親。その関係で、毎年夏になると2人は、その別荘でまるで本当の姉妹のように遊ぶのだった。
 やがて、貴子の家族が別荘に来ることがなくなって以降、2人は会うことも連絡を取り合うこともなくなり、再会したのが、その別荘を取り壊すことになった25年後のこと。永遠子も貴子もすでに大人になっていた。 続きを読む

芥川賞を読む 第48回 『苦役列車』西村賢太

文筆家
水上修一

社会の底辺を彷徨う私小説

西村賢太(にしむら・けんた)著/第144回芥川賞受賞作(2010年下半期)

目先の生理的欲望だけを追い求める

 新しい文学の形を求めるのが純文学の新人登竜門としての芥川賞のひとつの使命であるがゆえに、ある種実験的な手法を用いる作品が多いことも受賞作品の一面の特色であろう。だからこそ芥川賞は分かりづらいとか、おもしろくないといった評判が多いのも分かる。
 だが、西村賢太の受賞作「苦役列車」は、おもしろかった。
 主人公は、いわば社会的には最下層の若者だ。父親が性犯罪者となったことがきっかけで地元の街から逃げ出す母子二人。高校進学も諦めて都会の片隅の薄汚れたアパートで一人暮らしをする主人公・貫太は、汗で黒く変色した寝具のなかで寝起きする。彼にあるのは今日だけで、未来など関係ない。日々、目先の食欲と性欲と酒だけを追い求め、今日一日を生き延びるためだけに港湾荷役の日雇い仕事に従事する。家賃滞納と強制退去の繰り返し。
 それまでの人生の中でまともな友人関係はなかった貫太だが、職場で一人の専門学校生と知り合い妙に意気投合する。自分の得意とする風俗遊びと飲酒を彼と共有し絆を深めつつあったのだが、二人の生い立ちや生まれ持った性(さが)による壁は高く、二人の関係に亀裂が生じ始める。 続きを読む

芥川賞を読む 第47回 『乙女の密告』赤染晶子

文筆家
水上修一

『アンネの日記』の真実を探す女子大生

赤染晶子(あかぞめ・あきこ)著/第143回芥川賞受賞作(2010年上半期)

白熱したことが窺える選考会

 芥川賞選考委員の各選評は毎回、総合月刊誌『文藝春秋』に掲載される。全ての選考委員の選評を読むと、選考会でどのような議論がなされたのか、わずかに垣間見えることもあるのだが、第143回の受賞作、赤染晶子の「乙女の密告」については、例年にないほど白熱した議論が展開されたことが想像された。
 選考委員の小川洋子は、

議論の場ではかなり熱い言葉が行き交った。話し合いの中で新たな論点が次々と浮かび上がり、それに一生懸命ついてゆくうち、いつしか作品が受賞に相応しいかどうかの議論であるのを忘れた。賞の問題を超えて、もっと深く小説の世界に入り込み…

と述べている。
『文藝春秋』に掲載される「芥川賞選評」の、選考委員一人あたりの掲載ボリュームは約1ページ弱。そこでそれぞれの候補作について触れることが多いのだが、143回は大変な分量が「乙女の密告」にのみ割かれている。特に、小川洋子と池澤夏樹は2ページにも及ぶ選評をこの作品に割いている。それはまるで文芸評論だ。こんな回は珍しい。
 それはなぜか。そこに秘められた才能の大きさに惹きつけられたことはもちろん、もう一つは難解だからだと考えられる。「分からない」などという選評は選考委員には許されないのだろうが、『芥川賞の偏差値』を書いた作家の小谷野敦は(選考委員ではない)、同書で「私にはこの小説が何が言いたいのかさっぱりわからないのである」と告白している。 続きを読む

芥川賞を読む 第45回 『ポトスライムの舟』津村記久子

文筆家
水上修一

ありふれた生活と人間に対する繊細で温かみのある目線

津村記久子(つむら・きくこ)著/第140回芥川賞受賞作(2008年下半期)

ありふれた日常から掬いだすもの

 津村記久子は、平成17年に「マンイーター」で太宰治賞を受賞して、その3年後に「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞。当時30歳。その後、川端康成文学賞、紫式部文学賞など多くの文学賞を受賞し、昨年は谷崎潤一郎賞を受賞するなど息長く活躍を続けている。選考委員の小川洋子が「津村さんはこれからどんどん書いてゆくだろう。それは間違いないことであるし、一番大事なことである」と述べた通りになった。
 受賞作の「ポトスライムの舟」の主人公は、大学卒業後に入社した会社をモラハラで辞めざるをえず、現在は契約社員として町の工場で働く29歳の女性。母と2人、古い民家で慎ましやかに暮らす。薄給生活のなかでひたすら生活のために働くのだが、その中で見つけた仕事のモチベーションとなったのがクルーズ船の世界一周旅行。その費用は163万円。それは、1年間、工場で働いて得る金額とちょうど同じ額。その額を貯めることを夢見ながら生活を切り詰めて暮らす日々。そこに、それぞれ異なる境遇の同級生3人との交流を織り込みながら描いていく。 続きを読む

芥川賞を読む 第44回 『時が滲む朝』楊逸

文筆家
水上修一

自由と民主化を求める中国青年の青春群像

楊逸(ヤン・イー)著/第139回芥川賞受賞作(2008年上半期)

読み手を惹きつける題材

 中国ハルビン市出身の作家・楊逸。日本語以外の言語を母語とする作家として史上初となる受賞が話題を集めた「時が滲む朝」。ところどころに違和感を覚える日本語表現があったとしても、おもしろく読むことができたのは、ひとえにその題材によるものだろう。
 自由と民主化を求める中国の若者たちが、天安門事件で人生の挫折を味わう青春群像は、自らの内側にばかり意識が向きがちな今の政治的に無関心な多くの日本人からすれば、極めてスリリングだし、国のために社会変革を求めるその純粋さはある意味新鮮に映る。だからこそ、次はどうなるのだろうと想像しながらページをめくってしまう。
 この作品を推す選考委員の多くが指摘していたのが「書きたいこと」のある強みである。池澤夏樹は、

ここには書きたいという意欲がある。文学は自分のメッセージを発信したいという意欲と文体や構成の技巧が出会うところに成立する

と言い、高樹のぶ子は、

書きたいことがあれば、それを実現するために文章もさらに磨かれるだろう。根本の熱がなければ、文学的教養もテクニックも空回りする

と述べている。 続きを読む