沖縄伝統空手のいま 道場拝見」タグアーカイブ

沖縄伝統空手のいま 道場拝見 第8回 上地流宗家道場(普天間修武館)

ジャーナリスト
柳原滋雄

実戦的な沖縄空手流派

 沖縄空手の3大流派といえば、最も歴史の古い首里手の象徴である「しょうりん流」と、那覇手の「剛柔流」、そして「上地流」というのが定番だ。中でも上地流は沖縄に伝わった流派では年代的に最も新しく、中国拳法の要素を色濃く受け継いでいるとされる。創始者・上地完文(うえち・かんぶん 1877-1948)の名字を取って「上地流」と呼ばれる。
 上地完文は20歳で福建省福州市にわたり、そこで10年以上かけて南派少林拳の達人から武術を習得した。達人レベルの技法を身に付けて沖縄に戻ったが、帰国後、完文が沖縄で空手を広めることはなかった。中国で弟子の一人が誤って人を殺めてしまった自責の念があったからといわれている。
 勤務先の紡績工場(和歌山)で同僚らに請われて教えるようになった際はすでに50近い年齢になろうとしていた。当初は自分で身に付けた武術を「パンガヰヌーン拳法」と称した。
 完文の2男2女の子どものうち、中学を卒業したばかりの長男・上地完英(うえち・かんえい 1911-91)を和歌山に呼び寄せ、共に稽古する日々を送る。 続きを読む

沖縄伝統空手のいま 道場拝見 第7回 沖縄空手の名門道場 明武舘(剛柔流)〈下〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

国際色豊かな大人クラス

一般クラスのサンチン。八木館長が後ろから気合を入れる

 子どもクラスの稽古が終わるとそのまま中学生以上の一般クラスに移る。一般クラスは子どもと同じく火・木・土に加え、日曜を入れた週4回(時間は19時から20時半までの1時間半)。
 通常の稽古は20人くらいというが、この日は海外からカザフスタン、フランス、イギリス、カナダのメンバーが加わり30人以上の大人数となった。それでもぎりぎり練習できるくらいのスペースが確保されている。
 定刻の午後7時をやや遅れてスタート。まずは「サンチン」の型から始まった。子どもも大人も、型はサンチンから始まる。呼吸に力点が置かれ、呼吸と体の動きを合わせることを目的とする剛柔流の基本型だ。
 沖縄剛柔流は弟子の系統の流れから大きく3つの系統(比嘉世幸系統、八木明徳系統、宮里栄一系統)に分けられるが、八木明徳系のサンチンは最後の虎口(とらくち、一般には「回し受け」ともいう)を1回しか回さない。 続きを読む

沖縄伝統空手のいま 道場拝見 第6回 沖縄空手の名門道場 明武舘(剛柔流)〈上〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

歴史ある剛柔流の常設道場

4階建てビルの最上階が伝統ある明武舘の道場。入り口はビル1階の左にある(那覇市久米)

 沖縄初の空手流派として知られる剛柔流の創始者・宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)の戦前からの古い弟子であった八木明徳(やぎ・めいとく 1912-2003)が開いたのが明武舘(めいぶかん、正式名称・国際明武舘剛柔流空手道連盟総本部)だ。
 戦後、焼け野原から復興がスタートした那覇市久米に、71平米の木造平屋建ての道場が建設された。久米は歴史的には中国の明から派遣された「閩人(びんじん)三十六姓」(久米三十六姓)の居留地となった場所で、後の久米村をつくった。これらの人々は琉球の国づくりに貢献したことで知られる。
 八木明徳の一代記『男・明徳の人生劇場』(2000年)によると、明徳は戦後、コザ警察署などに勤務したあと、那覇に戻ったのは1949年4月のことだった。法務局の登記簿によると、八木道場の土地は1953年1月、建物は1958年3月に八木明徳によって所有権保存がなされている。ふつうに考えて58年以前にも建物があったはずだが、いつ道場が開設されたか、正確に日付を特定することは難しい。戦後、長嶺道場や比嘉道場(究道館)ができたころとさほど変わらない時期と推測される。 続きを読む