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長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第6回 沖縄戦を生き延びる

ジャーナリスト
柳原滋雄

洞窟内の那覇警察署

 長嶺将真は1944年10月、首里出身の女性、喜瀬ヨネと入籍した。長嶺が37歳、ヨネは27歳だった。
 それからわずか数日後、那覇市内がほぼ壊滅することになる「10・10空襲」が発生した。日本軍はほとんどなすすべもなく、街は破壊され尽くした。
 初めての本格的な空襲を受けた住民は、当初は友軍である日本軍の演習と勘違いした人もいたようだったが、米軍機とわかると、かねて想定していた防空壕に避難した。沖縄には自然にできた壕がたくさんある。さらに独特の亀甲墓の中はそれなりの空間があって、逃げるにはちょうどよい場所だった。
 那覇警察署に勤務していた長嶺によれば、この空襲で那覇署員の殉職者は発生しなかった。それでも那覇の家屋のほとんどが灰と化し、住民には突然の北部への避難命令が出て、ごった返した。この中には長嶺の両親も含まれていたと考えられる。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第5回 警察勤務時代(下)

ジャーナリスト
柳原滋雄

本部と船越の確執

 ここで沖縄の空手家から見た船越(富名腰)義珍という存在について見ておきたい。長嶺将真は警視庁での研修に派遣された1936年、本部朝基の「大道館」だけでなく、早くから東京で普及にあたっていた船越の道場も訪ねている。当時の「松濤館」は雑司ヶ谷ではなく、まだ本郷にあった時代だった。
 長嶺の人生にとって最初に唐手に接する機会となったのは小学生時代の船越との縁によるものだが、長嶺はその著作において、空手の師匠は新垣安吉、喜屋武朝徳、本部朝基の3人で、船越を師匠と位置づけたことは一度もない。

1937年ごろ、東京の船越宅で撮影されたとみられる貴重な写真。左から4人目が船越義珍、5人目が本部朝基

 船越は安里安恒や糸洲安恒の直弟子であり、首里手の使い手であったが、なぜ長嶺は尊敬しなかったのか。一つはすでに生じていた本部と船越の確執にも原因があったと思われる。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第4回 警察勤務時代(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

初任地の嘉手納で喜屋武朝徳に師事

 長嶺将真が沖縄警察の巡査試験に合格したのは1931年秋のことだった。20人ほどの枠に100人近くが応募し、18人が合格した。長嶺もその中に入ることができた。中国から復員して2年が過ぎていた。本人はこう記している。

 無事に満期除隊して帰郷したとき、私は将来の職業について考えてみた。自分の趣味である空手を研究しつつ、それを職業によって生かせるところ、それは警察以外にはない、と考えて、昭和6年9月、沖縄県巡査を拝命したのである。(中略)早く出世したいという考えよりも、空手道そのものに没頭できることが何よりもうれしくて、まるで国から俸給をもらって武道専門学校に通わせてもらっているようなものだと内心思っていた。(『沖縄の空手道』)

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長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第3回 病気で伏せり空手で蘇生する

ジャーナリスト
柳原滋雄

商業2年のときに唐手を始める

 長嶺が現在の高校にあたる那覇商業学校に入学した1922年(大正11年)は、日本空手史のエポックを画した年として知られている。
 長嶺の泊小学校在学中に運動会で唐手(からて)指導をしてくれた富名腰義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)が、文部省主催の第1回運動体育展覧会で唐手を披露するため上京した。4月のこととされるが、それを見学した柔道の嘉納治五郎(かのう・じごろう 1860-1938)の勧めにより、講道館でも演武することになった。富名腰は小規模な演武会を想定していたが、かなりの人数が集まる盛大なものとなったようだ。 続きを読む

長嶺将真物語~沖縄空手の興亡 第2回 泊という土地柄

ジャーナリスト
柳原滋雄

腕白少年として泊で生まれ育つ

 琉球王国の海の玄関口であった泊(とまり)港。そこに隣接する泊村は、古くから首里城のある首里から四キロほど離れた首里氏族ともゆかりのある地域として、地域共同体の結束が強い場所として知られていた。戦前は風光明媚な地域として知られ、泊は「地域全体が家族みたいなもの」といわれていた。明治新政府による琉球処分によって、旧藩が崩壊し、仕事を失う士族階級とともに、泊でも多くが路頭に迷ったが、貧しくても、教育だけは失わなかった伝統がある。そんな土地柄に、長嶺将真(ながみね・しょうしん)は1907年7月に生を受けた。 続きを読む