個人化が進む今だからこそ、中間集団の持つ可能性に期待

学習院大学非常勤講師
新 雅史

国家と個人の中間に存在する中間集団。その可能性と重要性が、個人化が進むなかで注目されている。

中間集団が注目された歴史的背景

「中間集団」の存在は「希望ある社会」の創造を目指す私たちにとって、非常に大きな役割を果たすと私は考えています。
 中間集団とは、もともとヨーロッパの中世社会で生まれた言葉で、自治都市、ギルド、地区の教会など「国家と個人の中間にある団体」を指します。今の日本で言えば、たとえば、労働組合や商工会議所、農協、漁協などの職業団体、各種NPO、地域のコミュニティー、宗教団体がこれにあたります。
 中世ヨーロッパでは、教会を中心とした人間的なつながりの中で宗教的な教えを身につけるカトリックから、教会ではなく個人で聖書を読み学ぶプロテスタントが主流になりましたが、この宗教改革に影響を与えた思想がカルヴィニズムです。この思想は西洋的な個人主義や近代的自我、さらには資本主義を生み出したと言われていますが、その弊害として、教会を中心とした地域的な結びつき、大家族的な結びつきの衰退を引き起こしました。
 バラバラになった個は、ともすると強力な国家的なものを求めることがあります。その代表的な例がフランス革命です。民衆が中心となった革命という意味では進歩なのですが、実際には一元的な理念に偏ってしまった結果、多くの反対派が投獄されるなど、社会が相当混乱しました。
 そのことにより、個人主義的なものは、社会の安定や秩序形成にはつながらないのではないかという問題意識が当時の知識人に生まれたのです。そこから、個人と国家の間にある中間集団の価値が注目されました。
 中間集団はその内部で独自の価値観を育みます。中間集団の存在は、社会に多様な価値があることを保障し、ひいては国家主義的な暴走を食い止める役割を果たします。
 つまり、近代化に伴う個人化と国家主義の台頭のなかでクローズアップされたものこそ中間集団だったのです。

震災で力を発揮した中間集団

 戦後の日本を見ると、中間集団的な組織を半ば強引に作ることに成功しました。その代表例が、終身雇用制度や労働組合などに見られる、企業が個人とその家族を包括するという制度でした。しかし、ここ20年くらいでその機能は低下。中間集団は弱体化し、個々がむき出しになりつつあります。
 こうした職業集団は、歴史的に見れば特異な状態だったと私は思っていますので、その力を再び復活させることは難しいし、建設的な提言につながりません。むしろ、日本で続いてきた伝統的な中間集団をもう一度再評価する時期が来ていると思います。たとえば、地域の寄り合いや宗教的なつながりなどです。地域で活動しているNPOは新たな「寄り合い」と言ってもよいでしょう。
 中間集団の大切さがよく分かったのが、東日本大震災における支援活動でした。安否確認を含めて支援活動に一番最初に動いたのは、商店街などの地域集団、さまざまな職業集団、宗教団体などでした。そうした集団に属していない人たちは、どうしても自治体ネットワークの中でフォローされるしかなく、その支援のスピードは遅かったように感じます。
 また、ボランティアの受け入れという視点から見ても、中間集団がないと、うまく機能しません。個々がバラバラで被災地に入っていくよりも、ネットワークを通じて現地入りしたり、そうした集団と現地で連動して活動したほうが効率的でした。
 職業集団に縛られて個が埋没するような従来型の関係ではなく、これからは身近にある〝紐帯〟としての役割が中間集団には求められると思います。震災はそうしたことを見直すきっかけになったと思いますし、そこから新しい希望が出てくるような気がします。

中間集団を強くするカギとは?

 個人化が進むなかで弱まる中間集団を強くするために必要なことは、「ボンディング」と「ブリッジング」です。ボンディングとは、同質グループ内での結束、ブリッジングとは異質なグループとのつながりです。ボンディングは強固だが閉鎖的、ブリッジングはゆるいが開放的という特性があります。これまでの日本は終身雇用に見られるようにボンディングの社会環境が強く、ブリッジングが弱い傾向にありましたが、今はブリッジングだけではなくボンディングも弱体化しています。
 まずボンディングの強化のカギは何でしょうか? 大きくわけて2つあります。1点目に「自分たちでのルール作り」です。集団や組織が大きくなると、ルールが細かく整備されることで官僚的になりがちです。末端組織の役割が低下し、どうしても指示待ち状態になるからです。これを打ち破るためには、上からのルールだけではなく、自分たちでルール作りをして、自主的な活動をすることが重要になります。自分たちで決めることには責任感が伴います。責任感が生まれれば、それを成すために建設的な意見もでてくるはずです。そうした取り組みが組織を強くするのです。
 財源や予算についても同様のことがいえます。活動に必要な財源を上部組織からそのままもらうのではなく、自分たちで何にどのくらい必要なのかを考え、自主的に獲得する努力も必要です。
 2点目に、自分たちの集団を作った先人たちが、なぜこのような集団を、どのような活動で作ってきたか、その歴史的な蓄積を皆が理解・確認することです。それがないと、自分がその集団に所属している意味が分からなくなってしまいますし、目指すべき方向性も曖昧になりかねません。すると、自主的に動けなくなり、先ほど述べたような指示待ちの状態に陥ってしまいます。
 一方、ブリッジングの強化に必要なことは何でしょうか? それは「課題を団体間で共有する」ことです。震災時に石巻市のボランティア活動がうまくいったのは、1つの団体が全部行うのではなく、さまざまな団体が互いに協力し合って、役割分担ができたからです。今必要なものが何かを調べ上げ、それぞれの組織の強みを把握し、各ニーズに対してどの組織がどう対応すればよいかを考えたからです。これからは他グループとの強固な関わり合い、ブリッジングの強化がより重要になってきます。

宗教的なものを喪失した社会

 私自身が今感じている危機感は、メンタリティーの問題です。将来への不安が強まり少子化が進むと、どうしても今生きている自分だけの命を考えがちになり、次世代に対する想像力が弱まりかねません。100年先、200年先も幸福な社会が続いていってほしいと思えるような社会や地域を作ることが不可欠で、そのための1つのカギになるのが中間集団です。
 元気なときは自分のことばかり考えがちですが、生きる力が弱まったときや死を間近に見据え始めたとき、おそらく未来社会を想像したり自分が生きてきた意味を問うたりするでしょう。そのときに中間集団は「自分が社会とどう関わってきたのか」「自分は何のために生きてきたのか」など、自身の存在意義を確認できる1つの寄る辺になるのではないでしょうか。
 当然、宗教団体もそうした存在になるでしょう。
 人間は誰しも宗教的なものがないと生きていけないと、フランスの社会学者エミール・デュルケームは言いましたが、どんな人間にも宗教的な核となるものが必要です。ところが、個人化が進むなかで、宗教的なものが喪失されてしまい、自分が何を大切にしたいのか、確認できなくなっているように感じます。それを確認できるツールこそ中間集団なのです。
 だからこそ今、中間集団のもたらす可能性を見直す時期が来ていると思います。

<月刊誌『第三文明』2013年10月号より転載>


あらた・まさふみ●1973年、福岡県生まれ。東京大学人文社会系研究科博士課程(社会学)単位取得退学。著書『商店街はなぜ滅びるのか』(光文社)が大きな反響を呼んだ。その他『大震災後の社会学』(共著・講談社現代新書)、『東洋の魔女論』(イースト新書)など。