文化芸術が開く 地域再生・日本再生への道

劇作家・演出家
平田オリザ

社会における文化芸術の役割とは何か。

柔構造の日本型社会の構築

 今回上梓した『新しい広場をつくる』は、2001年に出版した自著『芸術立国論』(集英社新書)
のバージョンアップ版ともいえます。
『芸術立国論』の出版当時から比べると、政権交代や大震災を経て、社会情勢は大きく変わりました。その中でも特に、小泉構造改革によって浮き彫りになった地方の疲弊は非常に深刻な問題です。各自治体は町おこしや村おこしを考えるにあたり、どうしても短期的な経済的視点にとらわれてしまうあまり、なかなか良い手立てが見いだせていない現状があります。
 この10年の間で何が変わり、何がより深刻な問題として浮き彫りになったのかを、地方の状況を具体的に提示しながら書いてみようと思ったのが本書執筆のきっかけでした。
 一方、大学の教員として若者と接する中で、若者が生き辛さや息苦しさを感じているのではないかという問題意識もありました。若い人たちが閉塞感を持っているとすれば、それは社会全体を先細りさせてしまいます。
 今のグローバル化の流れの中で、常に国際的に活躍できる人というのはごく一部の人にすぎません。資本主義社会なので、ある程度の競争は必要ですが、勝ち組と負け組、使う側と使われる側といった境目が固定化してしまうことは、社会にとっては好ましい状態ではありません。
 地域の実情や若者の実感を考えた時、一時的な景気の変動にとらわれることなく、長期的に耐え得る多様性ある柔構造の日本型社会を構築していく必要があると思います。

文化による社会包摂を

 多様性を備え、緩やかな日本型社会を構築していく時に大きな役割を果たすのが、文化芸術の分野です。
 クリエイティビティーが求められる文化芸術の世界には、人との違いや個性を認め合う土壌があり、これは寛容性や他者への理解という多様性に通じます。
 その意味では教育における文化芸術の役割はとても重要です。たとえば、「こんな変なことを考える人がいるんだ」という自分とは異なった感性に、子どもの頃からたくさん触れることは、子どもたちが他者を認める力を身につけることに寄与します。
 また、私どもが行っている演劇の世界でいえば、集団で作業を行う中で自然と合意形成能力を身につけることができます。それは他者と同一化することではなく、違いを違いのまま受け入れながら相手と上手くやっていく能力です。
 このように寛容性、他者への理解といった多様性を育むために文化芸術の存在は、より一層重要になってくるものだと思います。
 また、これまでの日本社会は家族に代表される地縁・血縁の共同体や、生計のための企業社会という共同体によってつくられてきました。しかし、昨今はそのような強固な共同体に属しているだけでは、どうも息苦しさを感じる人が増えているように思います。
 そうだとするならば、今後は「誰もが誰もを知っている共同体」から「誰かが誰かを知っている共同体」へと編みかえる作業が必要です。それは、自由に離脱が可能で、趣味や嗜好などによって集まる〝関心共同体〟とも呼べるような緩やかな共同体です。
 その編みかえを担える可能性を持つのが文化芸術であり、この小さくてしなやかなネットワークを培う「文化による社会包摂」こそが日本の希望の道だと思います。

最後は文化で再生する

 全国を回る中で感じることは、地方都市の風景が非常に画一化されているということです。郊外型ショッピングセンターができ、旧市街地は非常に寂れてしまって〝シャッター銀座〟の風景もすでにありふれたものとなってしまいました。
 かつては、各地域の市街地や商店街にはポテンシャルがありました。たとえば、駄菓子屋のおばさんが子どもを見守り、何か心配があればそれを親に伝えたり、学校空間とは違う空き地の中での子ども同士の人間関係があったりと〝無意識のセーフティーネット〟があったのです。それが最近では急速に崩れてきています。
 とはいえ、昔のように同じ形のものをただ作ればよいかといえばそうではありません。私たちは現代社会にあった形で、市場原理とも折り合いをつけながら、人びとの居場所として〝新しい広場〟を創り出していかなければいけないと思います。
 その時に図書館や美術館、音楽ホール、劇場といった文化施設がとても強い力を発揮します。
 韓国では、各シンクタンクが日本のこれまでの20年の停滞を徹底的に研究し、何千本というレポートをつくりました。その多くが〝クリエイティビティーの問題〟だと指摘し、この10年ほど韓国の政策のど真ん中にはクリエイティビティーが置かれてきました。
 産業的に見ても、日本の地方都市における重厚長大型の産業は、それのみに頼るにはもはや限界があります。その中で再生している地域というのは、厳しい状況に置かれ、一度地獄を見た地域です。そうした地域ほど最後は文化によって再生しているケースが実に多くあります。
 小さな町が自分たちの地域のソフト(知識や思考による産物の集積)を冷静に見極め、そこにどういう付加価値をつければよいのかということを自分で判断する。私はこれを〝文化の自己決定能力〟というふうに呼んでいますが、この〝文化の自己決定能力〟を地域が身につけていくことが、日本の地域社会の疲弊を解消していく鍵になると思います。

日本文化を海外に開く

 日本の社会の再生に文化が果たす役割を考えた時、消費の対象を「非文化的なモノ」から「文化的な形のない価値」へと移行していくことが大切です。
 私の世代からするととても信じられないのですが、最近では家電機器よりも高級ホテルで食事をするほうが値段が高くなっています。サービスのほうがモノよりも価値が高まっているのです。
 製造業においても、安い製品は韓国や中国に負けてしまう状況です。そのような変化の中ではどれだけ付加価値の高いものを売っていくかが重要となります。
 日本は工業立国の自信から殿様商売をしてきましたが、その間に韓国企業のサムスンは東南アジアでどんな製品が必要か、何が求められているのかを現地で調査し、現地で開発し、そして現地で販売してきました。
 私は文化戦略も同じことがいえると思います。政府はクールジャパンと声高に訴えていますが、本来、自分で自分のことをクールというのはあまりクールだとは思えません。あくまでも選ぶのは向こう側であって「日本文化は素晴らしいでしょう」とナショナリズムで押し付けても、誰も相手にしてくれないのです。日本の文化が東南アジアでどのように定着し、受け入れられていくのかを考えなければいけません。
 そのためには日本の文化を単に輸出するだけではなく、どれだけ開いていく(普遍化していく)ことができるか。そしてそれが真似をされたりしながら広がっていく。その術を身につけることに日本、そして地域の将来がかかっているといっても過言ではありません。
 今後、TPPやFTAなどが進み、アジアの労働市場が急速に流動化していけば、数十年後には日本社会も多民族化せざるを得なくなります。その時に民族を和解、融合し、人びとを社会に包摂していけるのは文化の力以外にあり得ないと私は思います。

<月刊誌『第三文明』2014年1月号から転載>


ひらた・おりざ●1962年、東京都生まれ。劇作家・演出家。国際基督教大学在学中に劇団「青年団」を結成。戯曲と演出を担当。現在、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授。教育、言語、文芸など幅広い分野の批評、随筆などを執筆。2002年度から採用された国語教科書には同氏のワークショップの方法論に基づいた教材が採用され、多くの子どもたちが教室で演劇を創作する体験を行っている。戯曲の代表作に『東京ノート』(岸田國士戯曲賞受賞)、『その河をこえて、五月』(朝日舞台芸術賞グランプリ)がある。著書に『芸術立国論』(集英社新書)、『演劇のことば』(岩波書店)、『わかりあえないことから』(講談社現代新書)、『幕が上がる』(講談社)など多数。近著に『新しい広場をつくる』(岩波書店)がある。