離党ドミノが止まらない維新――党の行く末に絶望する議員たち

ライター
松田 明

離党理由さえ公表しない無責任さ

 千葉市議会の会派「日本維新の会・無所属の会」が、市民の請願を〝自作自演〟して9月定例会に出していたことを認め謝罪した。

 守屋聡幹事長が13日の議会運営委員会で、問題の請願に会派所属の桜井崇議員と大平真弘議員の2人が関与していたと説明。「請願そのものがでたらめな書類だった」「すべてが自作自演の請願書」と述べた。(『読売新聞』9月15日

 千葉市議会は17日、請願提出に関わった同会派の桜井崇市議と大平真弘市議に対する議員辞職勧告決議案を可決した。2人が所属する「日本維新の会・無所属の会」は棄権した。
 市民の請願を装って〝自作自演〟とは、まさに日本維新の会という政党の体質をよくあらわしている。
 そして、党内を覆う「ハラスメント体質」への絶望なのか、「不祥事」の連続で支持率が低迷する「沈む泥船」からのイチ抜けなのか、ここにきて日本維新の会から〝離党者〟が続出しているのだ。
 まず、統一地方選で大躍進したはずの2023年に、自らの意思で「離党」したのは以下の面々。 続きを読む

本の楽園 第193回 生きのびるための事務

作家
村上政彦

 坂口恭平という人物を意識したのは、2011年の福島原発事故があって、何人かの文学者が集まった席だった。当時、彼が出版した『独立国家のつくり方』という新書を話題にした編集者がいて、あ、それは僕も知ってる、とおもった。ただ、読んではいなかった。
 後日、読んでみたら、著者の問題の設定は、新しい社会をどのように構築するか、というより、僕らがどのように生き方を変えてゆくか、に重心がある、と感じた。社会を変える思想や試みは珍しくないけれど、そのためには、まず、個人の生き方を変えねばならないという。
 当然のことを、社会を変えるための実践として説いているところに関心を持った。同じことを考えていたからだ。人間が変わらなければ、社会は変わらない。そのためには、どうすればいいのか?
 坂口は、あなた自身が変わることですよ、と呼びかけているようにおもえた。僕も同じだった。まず、僕が変わらなければ、社会は変わらない、と考えていた。かなり齢はちがうけれど、坂口は仲間だとおもった。 続きを読む

「第2回 沖縄空手少年少女世界大会」レポート(下)

ジャーナリスト
柳原滋雄

微笑ましい〝豆拳士〟たち

 筆者は2018年の「第1回沖縄空手国際大会」は取材しているが、2022年の「第2回沖縄空手世界大会」「第1回沖縄空手少年少女世界大会」(同時開催)は見ていない。
 今回の「第2回沖縄空手少年少女世界大会」では、最終日(8月12日)の決勝・準決勝のほか、前日(11日)に行われた本大会予選(海外・県外)を観戦することができた。
 各部門(古武道を除く)とも「少年少女Ⅰ」は6歳以上7歳以下(小学生低学年)が対象となるが、〝豆拳士たち〟の可憐な演武ぶりは微笑ましさを感じさせた。
 演武で使用された型名を記録すると、「首里・泊手系」で目立ったのは、小学生は「セーサン」や「ピンアン・初段~五段」、中学生では「セーサン」「パッサイ大(松村のパッサイ)」「パッサイ小(糸洲のパッサイ)」が目についた。この場合の「セーサン」は松村宗昆の弟子である喜屋武朝徳系のセーサンであり、那覇手系や上地流系の同名の型とは別種のものだ。 続きを読む

「第2回 沖縄空手少年少女世界大会」レポート(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

県主催の2年ぶりの世界大会

「第2回 沖縄空手少年少女世界大会」(主催・同実行委員会、沖縄県、沖縄伝統空手道振興会)が8月8日から12日まで、宜野湾市の「沖縄コンベンションセンター」で開催された。
 2016年に空手振興課を新設し、沖縄伝統空手の振興に努めてきた沖縄県が第1回と称して世界大会を開始したのが2018年。以来、2年ごとに少年少女大会と大人の大会を交互に行ってきた(新型コロナ禍時は不規則)。大会名に「沖縄空手」の冠を銘打っていることからわかる通り、全日本空手道連盟(全空連)と異なる沖縄「独自の空手」の意味を含んでいる。

開会式前のオープニングで琉球の踊りが演じられた

 ただし競技化して開催するには、全空連の試合内容の影響を受けざるをえないことは、2018年の当初大会から指摘されてきた。2022年の第1回少年少女大会から2年での開催となり、新型コロナ禍を明けてからの初の世界大会となった。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第60回 正修止観章⑳

[3]「2. 広く解す」⑱

(9)十乗観法を明かす⑦

 ③不思議境とは何か(5)

(3)十如是——総じて釈す③

 第七に「如是縁」については、「如是縁とは、縁は縁由(えんゆ)に名づく。業を助くるは、皆な是れ縁の義なり。無明・愛等は、能く業を潤す。即ち心を縁と為すなり」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。縁は「縁由」、つまり物事の由来、理由という意味である。業=因を助けることは縁の意味である。無明、渇愛などは、業を潤す(草花に水を与えて果実を実らせるように、業に影響を与えて苦果を生み出すこと)ことができるので、心を縁とするといわれる。
 第八に「如是果」については、「如是果とは、剋獲(こくぎゃく)を果と為す。習因は前に習続し、習果は後に剋獲す。故に如是果と言うなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。獲得することを果とするといわれる。習因は前において重なり続き、習果は後において獲得されるので、如是果というのであるといわれる。習因・習果については、 因果関係において、因が善ならば果も善、因が悪ならば果も悪、因が無記ならば果も無記である場合、因を習因(新訳では同類因)、果を習果(新訳では等流果)という。 続きを読む