連載エッセー「本の楽園」 第153回 物語の楽しみ方

作家
村上政彦

 僕は10代の後半にフランスのヌーボーロマンの信奉者だった。どっぷりのめりこんで、アバンギャルドな習作をいくつか書いた。モデルになる小説は、それまで僕が読んできたどの小説とも違っていた。
 まず、手法の新しさが何よりの価値となっていた。起伏のある物語や練られた人物造形などというのは、化石のようにあつかわれた。僕もそうだった。しかし、あるとき、自分の書いているアバンギャルドな小説がつまらないとおもった。
 ちょうどガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだ時期で、僕はこの小説にヌーボーロマンよりも新しさを感じた。とりわけヌーボーロマンは物語をきらった。それがマルケスの小説には物語があふれている。僕は物語が好きだ。物語が書きたかったのだ。
 そのころ小説の死が真剣に語られていた。僕は、小説は死ぬかもしれないが、物語は死なない、と確信した。それでアバンギャルドな小説を書くことをやめて、物語のある小説を書き始めた。作家デビューをしたのは、それから2年後だった。 続きを読む

書評『自己啓発の罠』――健全な技術と社会のあり方を考える

ライター
小林芳雄

孤立した「病的なナルシスト」を育てる

 近年、自己啓発が大ブームだ。どんなに小さな町の書店でも、その棚には自己啓発に関する書籍が必ず並んでいる。さらにインターネットが発達した現代ではソーシャルメディアを利用した広告も多く、目につくようになった。また転職サイトなどでは利用者がキャリア形成をするために自己啓発をすすめていることもあるようだ。さらには心身の健康に関する分野も人気が高い。
 著者はウィーン大学で教授を務める哲学者・倫理学者。本書『自己啓発の罠』では現代の自己啓発文化を多角的に議論し、その危険な側面を明らかにする。アメリカでは50億ドルともいわれる市場があり、多くの企業が社員の教育やメンタルケアのために取り入れている。その危険性はどこにあるのだろうか。

あまりにも自分を中心に考え、社会から孤立することは、心理学的に危険である。社会学の創説者の一人エミール・デュルケームは、そこから死に至る可能性(特に自殺)を指摘する。彼はこれを自己本位的(利己的)自殺と呼ぶ。(中略)むしろ彼は、社会的統合の欠如こそが問題であると主張した。自己啓発への私たちの強迫観念も、個人の問題というよりは主として社会の問題であって、社会レベルでの解決を要するのだ。(本書35ページ)

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書評『なぎさだより』――アタシは「負けじ組」の組員だよ

ライター
本房 歩

逗子の本屋の娘

 神奈川県逗子市。北西を鎌倉市に接し、南は御用邸で有名な葉山町に接している。
 相模湾に面してほぼ真横に一文字を描いてきた湘南の海岸線は、「鎌倉」の東側で5時の方向に折れて「逗子」「葉山」へと延び、三浦半島を形づくっていく。
 逗子の海辺はアルファベットの「C」を逆向きにしたようになっている。穏やかな割には風があり、ウインドサーフィンの聖地だ。晴れた日には正面に富士山が浮かぶ。
 著者は前回の東京オリンピックの年に鎌倉で生まれ、10歳からこれまでずっと逗子で暮らしてきた。実家は母親を店主に1959年から続く書店だった。
 浅草生まれで「粋と野暮」が口癖という母親のもと、海辺の町でのびのびと育ち、出版社勤務を経て95年にエッセイストとして独立した。 続きを読む

書評『完本 若き日の読書』――書を読め、書に読まれるな!

ライター
本房 歩

未公開の「読書ノート」も掲載

 今年1月に第三文明社から刊行された『完本 若き日の読書』(池田大作著)が、現在4刷と大変に好評だ。
 これは、同社から1978年に発刊された『若き日の読書』と1993年刊の『続 若き日の読書』を収録し、さらに著者の「読書ノート」(『第三文明』1964年3月~8月に連載されたものと、未発表のもの)、それらの一部のカラーグラビアも収録されている。
 この「読書ノート」は、著者が18歳だった1946年から雑記帳などに記述していたもので、まだ信仰の道に入っていない時期の読書の抜き書きである。終戦直後、きのうまでの価値観が一転した社会のなかで、10代の著者が歩んだ精神遍歴の一端を知る貴重な記録だ。
 収録された正編・続編の『若き日の読書』は、累計で31万部のロングセラーとなっている。いずれも『池田大作全集』第23巻(聖教新聞社/1997年刊)に収録されているが、この全集はすでに発売を終えている。
 今回の「完本」は今日の読者が手に取れるよう企画されたもので、551ページのボリュームながら紙の厚さも配慮し、価格も税込1500円と廉価を実現した。出典調査には創価大学池田大作記念創価教育研究所の研究者、同大学の教員・学生の有志が協力したという。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第11回 発大心(5)

[5]六即②

名字即・観行即

 名字即(みょうじそく)については、

 名字即とは、理は即ち是なりと雖も、日に用いて知らず。未だ三諦を聞かざるを以て、全く仏法を識らず。牛羊(ごよう)の眼の方隅(ほうぐう)を解せざるが如し。或いは知識に従い、或いは経巻に従いて、上に説く所の一実の菩提を聞き、名字の中に於いて通達解了(つうだつげりょう)して、一切の法は皆な是れ仏法なりと知る。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)113~114頁)

とある。理即は、原理的に三諦、三智が備わっていても、まったく現実化していない。それに対して、名字即は、善知識(仏法を教えてくれる良い友人)や経典によって、知識としては三諦の名や一切法がすべて仏法であることを知っている。しかし、まだ知識にとどまっていて、実践修行の段階に入っていない場合をいう。 続きを読む