連載エッセー「本の楽園」 第162回 小説は人物が九割

作家
村上政彦

 近年は、きちんと小説の読めるプロが少なくなった。大手出版社の編集者だからといって、読めるとは限らない。ここでいう「読める」は、もちろん文字が読めることではなく、小説をしっかり評価できるということだ。
 でも、まったく、読める人がいないわけではない。僕の周りには何人か信頼のできる読み手がいる。ときには、そういう人たちに生原稿を読んでもらって、意見を聴くこともある。僕の知っているプロの作家は、たいていそうやって作品の水準を上げてゆく。
 信頼できる読み手のひとりが、批評家のKさんだ。この人とは知り合いの編集者を介して、30年ほど前に出会った。それから、僕の小説の良き読み手であり、知恵袋ともなってくれている。
 そのKさんが、一昨年の収穫ベスト3のうち、1位に挙げていたのが、『優しい猫』である(ちなみに鳥影社から出た僕の『αとω』は3位)。これは読まないといけないと思いつつ、あっという間に2年が経ってしまった。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第16回 釈名(1)

 前回までで、十広の第一章「大意」(発大心・修大行・感大果・裂大網・帰大処の五略)の説明が終わった。今回は、『摩訶止観』巻第三上から始まる、十広の第二章「釈名(しゃくみょう)」の章を紹介する。この章は、相待(そうだい)止観、絶待(ぜつだい)止観、会異(えい。多くの経典に説かれる止観の別名についての説明)、三徳に通ず(止観と法身・般若・解脱の三徳との関係の説明)の四段に分かれる。 続きを読む

書評『歴史を知る読書』――豊かな歴史観を身につけるために

ライター
小林芳雄

〈歴史を知る〉とは?

 著者・山内昌之氏は、国際関係史と中東・イスラーム地域研究の日本における第一人者として知られ、「国家安全保障局顧問会議」の議長を務めるなど、日本を代表する有識者である。
 本書は、歴史学の泰斗である著者があまた出版されている数多くの書籍から、一般の読者でも楽しく読み進められ歴史を知ることができる75冊の本を選び、含蓄に富んだ文章でコンパクトに解説したものだ。
 歴史に詳しい人というと、歴史マニアやクイズ番組で活躍する回答者のように歴史的事件や年号に詳しい人のことだと思われがちだ。しかしそれは歴史知ることの一面に過ぎない。
 歴史は年号や固有名詞を正確におぼえることは基本であるが、そのうえで、歴史学とは積み重ねられた事実から歴史をつらぬく真実を読み取るものである。
 さらには、すぐれた歴史学者はよく知られている歴史的事実に新しい観点から光をあて、一般的な価値観や常識を覆すような研究を行う。そうした研究に基づいた歴史書を読むことは、私たちの歴史に対する考え方や見方を格段に深め豊かにするものであるという。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第161回 真のレジェンド

作家
村上政彦

 新聞やTVなどのメディアでは、レジェンドという言葉をよく見かける。けれど、本物のレジェンドは少ない。賑やかしの好きなマス・メディア特有の誇張だ。ただ、『遺言 対談と往復書簡』に登場する2人は、真のレジェンドである。
 志村ふくみは民藝の流れをくむ染織家、石牟礼道子は世界文学『苦海浄土』を著した小説家、詩人。この2人をレジェンドと呼ばずして、誰をレジェンドというか。
 往復書簡の企画は、志村が、長くつきあいのある編集者に、いまいちばん話したいのは石牟礼道子さんといったことから始まり、病にある石牟礼を気遣って、志村が熊本まで出向いて対談を行った。
 この間、石牟礼は新作能を構想していて、その衣装の染付を志村に依頼し、2人のあいだでは、能の脚本をめぐるやりとりも始まった。往復書簡は2013年の3月11日に始まり、2013年の5月30日まで続く。対談は2度。内容は、色と言葉についての含蓄ある思考に満ちているが、新作能の創作ノートの趣きもある。
 僕が意外だったのは、対談で明らかになった石牟礼の水俣での立ち位置だ。『苦海浄土』は、水俣病を告発すると同時に、患者たちの、悲しく、美しい、生をとらえて、いのちの深部に達した文学となっている。
 それが地元では、あまりよく思われていなかったらしい。 続きを読む

理解増進法をどう考えるか(下)――法律ができたことの意味

ライター
松田 明

法案成立を報じる『公明新聞』(6月17日付)

誰も得をしない野党の選択肢

 身も蓋もない言い方をすれば、政治は妥協の産物である。時には、多数派と少数派が妥協し合って合意形成するのが民主主義であり、それすらできない社会は強権独裁である。
 今回、自民党と公明党は数の上で与党だけでも法案成立が可能だったが、あえて自民党内の一部反対派を押し切り、さらに日本維新の会や国民民主党との合意を取りつけるために法案修正までした。
 あたりまえの話だが、各党にはそれぞれの支持層があり体面もある。合意するためには各党が支持者に説明できる、それぞれの論理の一貫性が必要だ。
 微妙な話をすれば、法文の解釈に関して、保守的な議員や支持者が納得できるロジックを用意する場合もあるだろう。事実、保守的な支持層に向けて、法律がむしろLGBTQ+の権利を抑制できるものだと強弁している議員もいる。
 だからこそ、国会の場で政府側の詳細な答弁を引き出しておくことが重要なのだ。
 ところが立憲民主党や日本共産党は、こうした合意修正を経て与野党が理解増進法を成立させることを全否定し、あくまでも自民党保守派が土壇場で葬った2021年の超党派議連の合意案にこだわった。 続きを読む