「維新」の強さ。その光と影(下)――〝強さ〟がはらむリスクと脆さ

ライター
松田 明

「日本維新の会」公式ホームページより

「電車の本数を減らせ」と同じ

 急速に勢力拡大を図る日本維新の会。全国紙の大阪本社に在籍するベテラン記者は、「今の維新はほんまに強いで。クロースアップ・マジックの名人なんや」と語った。クロースアップ・マジックとは、観客のすぐ目の前で見せる手品のことだ。
 たとえば維新の代名詞ともなっている「身を切る改革」。
 維新は、「まず議員が身を切る改革を実践し覚悟を示す」として、議員定数の削減、議員報酬の削減を掲げる。馬場代表は最近、国会でも衆参を合併して一院制にして議員を半分にするとまで語っている。
 ここで描かれている〝物語〟は、旧来の政治が政治家自身の既得権益を守っていて、庶民がムダな負担を強いられているというものだ。「古い政治」に対して維新が「新しい民意」で挑むという図である。
 少子高齢化で現役世代の社会保障費の負担が大きな課題になり、あるいはコスパやタイパがトレンドになるなか、まずは政治家や政党自身が〝わが身を切れ〟というメッセージは有権者の心情に響きやすい。
 しかし、日本の国会議員の数は欧州諸国と比べてもかなり少ない。しかも議員定数削減や報酬カットで得られる財源は、大阪市でも年間2億円程度。全国でも数十億円にとどまるだろう。浮く財源は国民1人あたり年間で何十円か。定数や報酬を減らしたからといって減税ができるような話ではない。 続きを読む

「維新」の強さ。その光と影(上)――誰が維新を支持しているのか

ライター
松田 明

「日本維新の会」統一地方選特設ページ

「維新はリベラル」という認識

 このところ日本維新の会の支持率が立憲民主党を抜いている。潮目の変化が起きたのは今年4月9日。統一地方選挙の前半戦で、大阪府知事選挙と大阪市長選挙の両方をふたたび維新が大差で勝ち抜き、府議会と市議会で単独過半数を獲得したところからだ。
 維新の支持率が瞬間的に立憲を抜いたことは過去にも何度かあったが、4月半ば以降はどの社の調査でも逆転が固定されている。
 過去40年ほどのあいだに、いくつもの「新党」が生まれ、「第三極」と呼ばれる勢力も伸びながら、いずれも長くは続かなかった。この点、維新は母体でもある大阪維新の会の結成までさかのぼれば、すでに13年も命脈を保っている。
 なぜ維新がこれほど強くなってきたのか。〝極右〟〝ポピュリズム〟〝在阪メディアを牛耳っている〟という維新への批判は、そもそも的確なのか。
 政治学的に各党の政策を分析評価した指標と、一般有権者の目に映っている各党のカラーは、必ずしも一致しない。そればかりか、世代によっても映り方は全く違う。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第164回 弱さのちから

作家
村上政彦

 この数年、「ケア」という言葉をよく見かけるようになった。文学、アート、音楽、さまざまなシーンで、ケアにかかわる作品の制作や、ケアを軸に作品を論じる批評を見聞きした。ケアとはなにか? 哲学者の鷲田清一は、すでにずいぶんとまえから、この問いを発してきた。
『〈弱さ〉のちから ホスピタブルな光景』は2001年に出版されている。

ケアについて考えれば考えるほど、不思議におもうことがある。なにもしてくれなくていい、とにかくだれかが傍らに、あるいは辺りにいるだけで、こまごまと懸命に、適切に、「世話」をしてもらうよりも深いケアを享けたと感じるときがあるのはどうしてなのか

 そういう経験は、僕にもある。それは実存そのものの息吹や体温と関係しているとおもう。もう、だめだ、この先、生きてゆけない、と脱力し、坐りこんでいるとき、よけいな言葉をかけることなく、そっと隣に坐って、ともに時を過ごしてくれた人がいた。 続きを読む

書評『丸山眞男と加藤周一』――戦後を代表する知識人の自己形成の軌跡をたどる

ライター
小林芳雄

芸術への愛好と徹底した読書

 政治学者・丸山眞男(1914-1996)と文学者・加藤周一(1919-2008)は戦後日本を代表する知性であり、ともに著作も多く、実際に日本社会に多大な影響を与えた人物だ。
 本書は、2021年に東京女子大学の丸山眞男記念比較思想研究センターと立命館大学加藤周一現代思想研究センターが行った共同展示の内容を本にまとめたものである。数多くの著作だけでなく、膨大な未公刊の草稿や日記なども丹念に調査し、出生から1945年の太平洋戦争敗戦の年までの2人の成長の軌跡をたどっている。

 丸山と加藤は基本的には自由主義の立場に近く、社会主義に対しても多大なシンパシーをもっていたが、既成のイデオロギーの持ち主として捉えるのはミスリーディングであろう。二人は、出来合いの規準を内面化してそこから自己の判断や行動を割り出していくのではなく、自分なりの独立した判断規準を鍛え上げていくことを課題としていたのである。(本書20ページ~21ページ)

 旧制一高から東京帝国大学へ進学を果たし、エリートとしての経歴を歩んだ2人であったが、模範的な優等生ではなかったという。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第17回 釈名(2)

[1]相待止観②

(2)観の三義

 『摩訶止観』には、観の三義について、次のように説明している。

 観も亦た三義あり。貫穿(かんせん)の義、観達(かんだつ)の義、不観に対する観の義なり。
 貫穿の義とは、智慧の利(するど)き用(ゆう)は、煩悩を穿滅(せんめつ)す。(中略)此れは所破に就いて名を得るにして、貫穿の観を立つるなり。
 観達の義とは、観智もて通達して、真如に契会(かいえ)す。(中略)此れは能観に就いて名を得るが故に、観達の観を立つるなり。
 不観に対する観とは、語は上に通ずと雖も、意は則ち永く殊なり。上の両(ふた)つの観は亦た通じて生死の弥密に対して貫穿を論じ、迷惑の昏盲(こんもう)に対して観達を論ず。此れは通じて智・断に約し、相待して観を明かすなり。今は別して諦理に約す。無明は即ち法性にして、法性は即ち無明なり。無明は観にも非ず不観にも非ずして、而も無明を喚びて不観と為し、法性は亦た観にも非ず不観にも非ずして、而も法性を喚びて観と為す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅰ)236~238頁)

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