書評『アートの力』――「新しい実在論」からがアートの本質を考える

ライター
小林芳雄

 著者であるマルクス・ガブリエルは、ドイツの大学史上、最年少で哲学教授に就任したことで話題になった。「天才」や「哲学界のロックスター」としてマスメディアで取り上げられることも多く、インタビューをまとめた書籍やテレビ番組も放送され話題を呼んだ。
 本書『アートの力』は「アートとは何か?」という問題に哲学的に取り組んだものである。彫刻や映画、文学などさまざまな実例を挙げ、「新しい実在論」の立場からアートの本質を考える野心的な試みである。

私はここで、美的構築主義の暗黙の諸前提に代えて、ラディカルに異なる代案を提示したい。その代案とは、新しい実在論を芸術哲学に応用すること、つまり新らしい美的実在論を考えることだ。(本書48ページ)

現代の芸術哲学の主流=美的構築主義

 現代、美術哲学の主流となっている考え方の前提には根本的な誤りがある。それはアートの価値は観察者の目に宿るというものだ。これによれば、芸術作品を鑑賞し美しいと感じる経験は対象となる美術作品から生み出されるものではなく、私たちの心によって構築されたものになる。こうした考え方をガブリエルは美的構築主義と名づけている
 さらにこの立場を突き詰めていくと現代的ニヒリズム(虚無主義)に陥る。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第26回 偏円③

(4)漸・頓を明かす②

(d)教・行・証の人と因果

 蔵教・通教の二教の止観は、因のなかには教・行・証の人がいるが、果には教だけがあって、行・証の人はいないとされる。その理由については、因のなかの人は、身を灰にして小乗の涅槃に入り、空に沈んですべて消滅し、果としての仏を成就することができないからであると説明されている。
 別教の場合も同様に、因のなかには教・行・証の人がいるが、果には行・証の人はいない。これは、先に述べた通り、別教において無明を破して初地の位に登るとき、この位はそのまま円教の初住の位となり、修行者は円教に進むからである。したがって、別教の果には、人(仏)がいないことになり、これを果頭無人(かずむにん)という。
 円教の場合は、因のなかの教・行・証の人は、すべて因から果に到達するので、果にも教・行・証の人がすべて備わるとされる。 続きを読む

二宮清純「対論勝利学」――甲子園「1回11四死球」という不名誉な記録から得たもの

元少年野球指導者
金澤真哉

 高校球児憧れの舞台、甲子園。金澤真哉さんは、そこで得た苦い経験を糧にして子どもたちに野球を教えてきた。二宮清純さんが、その野球人生と指導方法について聞く。

捕手のミットが針の穴に見えた

二宮清純 今年の夏の甲子園は、慶應義塾高校(神奈川県)が実に107年ぶりの優勝で話題を呼びました。のっけから恐縮ですが、金澤さんも話題になった記録をお持ちですね。

金澤真哉 記録といっても私のは不名誉なもので、報徳学園(兵庫県)3年生の時のセンバツ(春の甲子園)で1回に11四死球を与えたのです。

二宮 1試合ではなく1回で、ですからね。私も初めて聞いた時は驚きました。当時の様子を詳しく聞かせてもらえますか。

金澤 1971年のセンバツ2回戦(初戦)、相手は東邦高校(愛知県)でした。初球が先頭バッターの左腕に当たってしまい、続くバッターへの2球目も頭に当たってしまったのです。その後は3者連続で四球を与え、6番バッターをセンターフライに打ち取ってやっとアウト1つ。でも7番にまた死球で、8番にも四球。9番のスクイズで2アウトになったものの、さらに4者連続で四球を与え、ようやく交代を告げられました。

二宮 打者13人に11四死球ですか……。記録を見るとその後にマウンドに上がったピッチャーも3四死球を記録しているので、初回に無安打で11失点を喫したわけですね。

金澤 そのとおりです。もう悪夢のような出来事でした。 続きを読む

書評『訂正可能性の哲学』――硬直化した思考をほぐす眼差し

ライター
本房 歩

コミュニケーションの奇妙な本質

 ITやAI技術の飛躍的な発展によって、私たちの生活はあらゆる面で最適化されるようになった。たとえば、あなたが動画配信サイトで動画を視聴したとする。すると、ビッグデータをもとに類似する他のユーザーとの比較がおこなわれ、自分の好みの傾向が導き出され、視聴する可能性が高いと思われる「おすすめ動画」がサジェストされる。
 ネットショッピングでのおすすめ商品や、SNSに現れる他のユーザーによる投稿なども、同様の手法に基づいて、自身の興味や関心に近い内容が優先的に表示される。
 こうした技術の進歩によって、私たちはおそらく歴史上、かつてないほど合理的で、より誤りの少ない選択ができる環境に身を置くようになった。しかし、こうした合理性の追求は、私たちの人生を真に豊かにするのだろうか。
『訂正可能性の哲学』は、〝正しさ〟の時代にあって、誤ることの価値について論じ、さらには普遍的な正しさを疑う「訂正」の重要性を説いた一冊だ。

 ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。(本書)

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連載エッセー「本の楽園」 第172回 パレスチナ

作家
村上政彦

 もう4、5年ほどになるだろうか。ジャン・ジュネの『恋する虜』というパレスチナをめぐるノンフィクションを見つけて、買おうとおもったら、中古書しかなく、3万円を超える値段がついていた。
 僕にとって本は商売道具でもあるので、できるだけの投資はする。でも、3万円は高い。どうするか考えあぐねたあげく、版元に電話してみたら、近々、重版の予定があるというではないか。
 たしか1ヵ月か2ヵ月で新刊を手にした。7千円。普通の小説本よりは高いけれど、3万円よりはずっと安い。その日から付箋を貼りながら読み始めた。この作品はジュネの晩年に書かれたもので、『シャティーラの四時間』とならんで、パレスチナを描いたすぐれた文学だ。
 ただ、ほかのジュネの作品と同じく、なかなか読むのが難しい。分かりにくいのではない。彼に固有の詩的な文章に慣れるための時間がかかるのだ。でも、慣れてしまえば、この力作に圧倒される。
 僕はジュネの導きでパレスチナ問題について考えるようになった。そして、眼につく本があると手にとるようになった。そのうちの一冊が、ジョー・サッコの『パレスチナ』だった。 続きを読む