民藝を知ったのは、普通の小説を書き始めてからだったとおもう。若いころの僕は古美術の類にほとんど興味がないので、その方面にはうとかった。同時代のアートには、大いに関心を持っていた。僕の10代のころのアイドルは、マルセル・デュシャンだった。
デュシャン以降のアートについても、アメリカのポップアート、ヨーロッパのアバンギャルドと、広く目配りをしていた。僕は、小説を書いていたが、ジャンルは違っても、同時代の表現者たちが、どのような仕事をしているのかは、知っておかなければならいとおもったし、実際に刺激も受けた。
だから、いちばん最初に仕上がった小説は、大判の写真を額装にして、詩のような文章がついていた。つてを頼ってある雑誌の編集者に見せたところ、時代から一歩踏み出すと、人はついて来られない、踏み出すのは半歩ぐらいで、ちょうどいいのだ、といわれた。
確かに、この小説は誰にも認められなかった。でも、僕自身は満足だった。新しい小説を書いたと胸を張っていた。一歩どころか、二歩も、三歩も、踏み出してやる、と意気込んでみせた。
僕は、自分なりの文学理論を構築して、それに基づいて作品作りをしたのだ。けれど、その編集者は苦笑いして、それもたいしたものではないよ、といった。僕はジェームズ・ジョイスが、家族の臨終の際、祈ってくれ、と願われて、無神論者だからできない、と拒んだ例を挙げた。
それなら好きにすればいいのでは、と返されて、僕は彼に礼をいって去った。本当はさびしかった。理解者がいないのは辛い。ひとりでもいいから、おもしろい、といってくれる人がいれば、僕はどんどん新しい小説を書き続けただろう。 続きを読む
