『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第35回 方便⑥

[3]具五縁について④

(4)懺浄を明かす②

②事懺の逆流の十心

 前項では、煩悩、業、苦が連鎖し、ついに一闡提(いっせんだい)にいたるまでを明かしている。この順流の十心を対治して悪法を除くものが逆流(罪の流れに逆らうこと)の十心である。順流の十心は、事懺(じせん)と理懺(りせん)に共通であり、逆流の十心については、事懺と理懺のそれぞれについて別立てで説明されている。
 第一は、仏法の因果を信ずることによって、一闡提の心を破ることである。第二は、自分で自分を恥じ、天に恥じ、他人に恥じることによって、慚愧(ざんき)のない心を破ることである。第三は、悪道を恐れることによって、悪道を恐れない心を破ることである。第四は、自分の罪を隠蔽しないことによって、罪を覆い隠そうとする心を破ることである。第五は、連続して悪をなす心を断ち切ることによって、常に悪事を思う心を破ることである。第六は、菩提心を生ずることによって、すべての場所に広く行きわたって、悪を起こす心を破ることである。第七は、功徳を修めて過失を補うことによって、身口意の三業を放縦にする心を破ることである。第八は、正法を守護することによって、随喜(他人の幸せを喜ぶこと)のない心を破ることである。第九は、十方(四方、四維、上下の方向)の仏を念ずることによって、悪友に従う心を破ることである。第十は、罪の本性が空であることを観察することによって、無明(むみょう)の暗闇を破ることである。 続きを読む

芥川賞を読む 第33回『ハリガネムシ』吉村萬壱

文筆家
水上修一

暴力性の生まれる暗部の構造を描く

吉村萬壱(よしむら・まんいち)著/第129回芥川賞受賞作(2003年上半期)

不気味な寄生虫「ハリガネムシ」

 第129回の芥川賞受賞作は、『文学界』に掲載された吉村萬壱の「ハリガネムシ」だった。
 受賞作のタイトルにもなっているハリガネムシについて、作中では詳細には解説されてはいないが、調べてみると実に薄気味悪い生物だ。くねくねと動く細長いひものような寄生虫で、乾燥すると針金のように硬くなることが名前の由来らしい。本来は水生生物で、カゲロウなどの水生昆虫に捕食されそれをカマキリなどの陸上生物が捕食すると、その陸上生物に寄生し成長を続ける。最終的には、ある種の神経伝達物質を使ってカマキリを酩酊状態にし、川などに入水させた後にカマキリの尻からにゅるにゅると出て行って水の中へと帰っていく。この作品の不気味さをうまく象徴しているタイトルである。
 平凡な教師だった主人公の〈私〉が堕落・変質していくきっかけとなったのは、ソープ嬢のサチコと出会いだった。社会の底辺を這いつくばるように生きてきたサチコとの交流の中で、自らの中にある肉欲を含む暴力性に徐々に目覚めていく様は、実に見事でありスリリングでもある。 続きを読む

世界はなぜ「池田大作」を評価するのか――第2回 世界宗教の要件を整える

ライター
青山樹人

「創価学会は正典化を完成した」

――前回は、池田名誉会長が80歳以降の展望として「随筆 新・人間革命」第1回で綴った「妙法に説く不老不死のままに、永遠に広宣流布の指揮をとることを決意する」について、それは後継の弟子が陸続と登場することによってのみ実現されるのだということを確認しました。名誉会長は早い時期からはるか未来までを見通して、あらゆる手を打ってきたわけですね。

青山樹人 池田先生がこの随筆を発表されたのは1998年1月4日付の聖教新聞でした。これが、どういう時期であったかを確認しておきたいと思います。
 1990年の暮れに、当時の日蓮正宗法主らが奸計をめぐらせて、いわゆる第二次宗門事件が惹起します。池田先生を総講頭から罷免して創価学会を動揺させて解体し、黙って供養を差し出す従順な信徒だけを囲い込もうと謀ったわけです。その目論見のなかで91年11月に宗門は創価学会を〝破門〟します。
 ところが、学会はビクともしなかった。もともと学会は1952年9月に宗教法人の認証を得ている団体です。むしろ怪しげな「法主信仰」に教義を変質させた宗門のほうから袂を分かってくれたことは、その後の創価学会が一気に世界宗教化する好機となりました。 続きを読む

連載エッセー「本の楽園」 第175回 編集の提案

作家
村上政彦

 僕の本業は小説を書くことだ。一般に小説家とは孤独な仕事だとおもわれているらしい。確かに書くときには独りである。口述筆記というやり方もあるけれど、僕はパソコンのワードプロセッサー機能を使っているので、速記者や記録係はいない。
 ただ、実は、編集者という存在がある。彼らは僕の書いたものを読んで、意見を述べ、ときにアイデアを出し、最終的に作品の評価をする。編集者が納得しないと活字にならないのだ。
 つまり、書くときは独りだけれど、僕ら小説家は編集者の眼を感じ、ふと一緒に書いているような錯覚になることもある。編集者は伴走者なのだ。いい編集者はそれを意識していて、こちらが必要なときに相談に乗ってくれたり、思いもかけないときに連絡をくれたりする。
 業界で有名な編集者の言葉に、「編集者は語らず。ただ書かせるのみ」というのがある。彼らは黒子であって、表には出ない。少なくとも僕がデビューしたころの編集者はそうだった。
 ところが最近、編集者が表に出てくることがある。自分の編集哲学を語ったり、それを本にしたり。これは世の中が「編集」という技を求めているからではないかとおもう。
 では、「編集」という技の本質はなんだろうか? 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第34回 方便⑤

[3]具五縁について③

(4)懺浄を明かす①

 具五縁の第一「持戒清浄」の四段のうち、第四の懺浄(さんじょう。戒を犯した罪を懺悔して、清浄に戒を持つこと)を明らかにする段落の冒頭には、事戒と理戒を犯すと、止観を妨げて、禅定・智慧を生じないので、どのように懺悔するかが重要であることを指摘し、その後、懺悔して罪を滅する方法について詳しく説いている。懺悔については、事戒を犯した場合の懺悔は事懺(じせん)といわれ、理戒を犯した場合の懺悔は理懺(りせん)といわれる。
 まず、事戒について軽罪を犯した場合は、小乗にも懺法(せんぼう。懺悔して罪が許される方法)があるが、重罪を犯した場合は、仏法の死人というべきものであり、小乗には懺法がなく、大乗だけがその懺悔を許可するといわれる。この場合は四種三昧によると記されている(※1)。これが事懺と呼ばれるものである。
 理戒(観心の持戒)のなかの軽罪・重罪を犯すことは、『摩訶止観』の本文では、理觀が誤っている程度が軽い場合と重い場合に分けて、次のように説明している。 続きを読む