次期戦闘機をめぐる議論(下) ――首相に語らせた公明党

ライター
松田 明

公明党が求めた「国民の理解」

 3月26日、政府は日英伊の3カ国で共同開発する次期戦闘機の「第三国への輸出」を可能とする方針を閣議決定し、防衛装備移転三原則を改定した。
 なお、「第三国への輸出」については、野党でも日本維新の会と国民民主党は「賛成」の立場を表明している。

日本維新の会の音喜多駿政調会長は記者団の取材に「一歩前進だ」と歓迎。「防衛政策について政府の方針を後押しすべきは後押ししていきたい」と語った。国民民主党の玉木雄一郎代表も会見で「共同開発は賛成だ。相手国とある程度、歩調を取った条件でやらないとこれから相手にされなくなるのではないか」と評価した。(「時事ドットコムニュース」3月26日

 制度上、輸出の容認について国会の審議は必要ないものの、関連する条約案などをめぐって今後、国会での論戦が展開されることになるだろう。
 本稿(上)で述べたように、結論を急ごうとする自民党と政府に対し、昨年末から「待った」をかけ続けていたのが与党・公明党だった。この3月初めの時点でも公明党は首を縦に振らなかった。野党の一部さえ賛成しているにもかかわらず、である。
 公明党は、この問題が日本の安全保障政策の大きな転換になり得ると判断し、なにより国民にも一定のコンセンサス(合意)ができることと、なし崩し的にならないための「歯止め」が必要だと考えていたのだ。 続きを読む

次期戦闘機をめぐる議論(上)――公明党の〝ちゃぶ台返し〟

ライター
松田 明

「武器輸出」をめぐる日本政治史

 日本が英国・イタリアと共同開発を進めている次期戦闘機について、自民・公明それぞれの与党審査が先週終わった。これを受けて政府は3月26日午前、第三国への輸出を認める閣議決定をし、国家安全保障会議(NSC)で運用指針を改定した。

 閣議決定案には、輸出する場合「個別案件ごとに閣議で決定する」と明記した。指針改定案は、国際共同開発品のうち今回は輸出対象を次期戦闘機に限定。輸出先を「防衛装備品・技術移転協定」の締結国に限り、現に戦闘が行われている国には輸出しないとした。(「東京新聞WEB」3月22日

 日本では1967年4月21日、当時の佐藤栄作首相が衆議院での答弁のなかで、次のような「武器輸出三原則」を示した。

戦争をしている国、あるいはまた共産国向けの場合、あるいは国連決議により武器等の輸出の禁止がされている国向けの場合、それとただいま国際紛争中の当事国またはそのおそれのある国向け、こういうのは輸出してはならない。(第55回国会衆議院決算委員会議事録

「共産圏諸国」「国連決議で武器輸出が禁じられている国」「国際紛争(恐れのある場合も含め)当事国」には武器等を輸出しないと答弁したのだ。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第43回 正修止観章③

 前回示した、十境十乗観法の説かれる「2.8. 依章解釈」までの科文を再び示す。

1.  結前生後し、人・法の得失を明かす
1.1. 得を明かす
1.2. 失を明かす
2.  広く解す
2.1. 開章
2.2. 生起を明かす
2.3. 位を判ず
2.4. 隠顕を判ず
2.5. 遠近を判ず
2.6. 互発を明かす
2.7. 章安尊者の私料簡
2.8. 依章解釈

 
 前回は「1. 結前生後し、人・法の得失を明かす」の段を説明したので、今回は、「広く解す」の段を説明する。 続きを読む

本の楽園 第182回 河井寛次郎の残した言葉

作家
村上政彦

 民藝を知ったのは、普通の小説を書き始めてからだったとおもう。若いころの僕は古美術の類にほとんど興味がないので、その方面にはうとかった。同時代のアートには、大いに関心を持っていた。僕の10代のころのアイドルは、マルセル・デュシャンだった。
 デュシャン以降のアートについても、アメリカのポップアート、ヨーロッパのアバンギャルドと、広く目配りをしていた。僕は、小説を書いていたが、ジャンルは違っても、同時代の表現者たちが、どのような仕事をしているのかは、知っておかなければならいとおもったし、実際に刺激も受けた。
 だから、いちばん最初に仕上がった小説は、大判の写真を額装にして、詩のような文章がついていた。つてを頼ってある雑誌の編集者に見せたところ、時代から一歩踏み出すと、人はついて来られない、踏み出すのは半歩ぐらいで、ちょうどいいのだ、といわれた。
 確かに、この小説は誰にも認められなかった。でも、僕自身は満足だった。新しい小説を書いたと胸を張っていた。一歩どころか、二歩も、三歩も、踏み出してやる、と意気込んでみせた。
 僕は、自分なりの文学理論を構築して、それに基づいて作品作りをしたのだ。けれど、その編集者は苦笑いして、それもたいしたものではないよ、といった。僕はジェームズ・ジョイスが、家族の臨終の際、祈ってくれ、と願われて、無神論者だからできない、と拒んだ例を挙げた。
 それなら好きにすればいいのでは、と返されて、僕は彼に礼をいって去った。本当はさびしかった。理解者がいないのは辛い。ひとりでもいいから、おもしろい、といってくれる人がいれば、僕はどんどん新しい小説を書き続けただろう。 続きを読む

芥川賞を読む 第37回 『グランドフィナーレ』阿部和重

文筆家
水上修一

冷静な文体で小児性愛を描く不気味さ

阿部和重(あべ・かずしげ)著/第132回芥川賞受賞作(2004年下半期)

肩透かしのような感覚

 阿部和重は、平成16年に芥川賞を受賞するまで、群像新人文学賞、野間文芸新人賞、伊藤整文学賞、毎日出版文学賞を受賞しており、芥川賞候補にも三回あがっている。芥川賞受賞は、平成6年に初めて群像新人文学賞を受賞してから10年後になるので、満を持しての受賞ということだろう。
「グランドフィナーレ」の主人公の「わたし」は、小児性愛者の男性。自分の娘を含む幼女たちの膨大な量のいかがわしい写真が妻に発覚したことから、家庭は崩壊。法的に娘に面接することもできなくなった葛藤を丹念に描いている舞台は東京、そして人生から脱落して新しい道を歩み始めるきっかけを模索する舞台が東北の田舎町だ。田舎町を舞台とする後半の展開は、再生の兆しも見えるのだが、「わたし」の前に現れた美しい2人の少女との出会いから別の展開が見えてくる。 続きを読む