書評『龍樹と語れ!』――白熱した論争のドラマから龍樹の実像に迫る

ライター
小林芳雄

謎の書『方便心論』

『方便心論』という書物がある。漢訳のみが現存し、著者は大乗仏教の代表的な哲学者・龍樹とされているが、真偽のほどは定かではない。分量は漢字で8000字と短いが、論理学に関することが書かれているということ以外、内容も判然としない。まさに謎の書である。
 著者はインドの正統バラモン思想に属するニヤーヤ学派(論理学派の)研究者であったが、数年かけて『方便心論』に徹底して取り組み、古代インドで繰り広げられた論争の過程を詳細にふまえ、これまで知られることのなかった龍樹像を明るみに出すことに成功した。本書は一般読者に向け、そのエッセンスをわかりやすく伝えたものだ。

 ここで出てくるのが、伝家の宝刀、対機説法という技である。「対機説法」というのは、相手の問いかけにあわせて答える方法である。「言い争う論法」を提示して示すチャラカに対しては、それにあわせて対応させて「言い争わない論法」というのを説いて示す、というアクロバチックな技がくり広げられることになる。(本書97ページ)

 著者は、『方便心論』は龍樹が著した論争の書であり、その相手は主に『チャラカ・サンヒター』という医学書を編纂した医師・チャラカと推定する。だが医師といっても現代とは大きく異なる。病因を正しく推理するための論理学や人間の本質を考える伝統的なバラモン哲学、医師としての名声を得るために相手を徹底的に打ち負かす陰険な論争術など、これらを総合的に身につけていた。
 龍樹はなぜ医師であるチャラカと論争したのか。著者はその理由を龍樹もまた医師であったからと考える。 続きを読む

『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第54回 正修止観章⑭

[3]「2. 広く解す」⑫

(9)十乗観法を明かす①

 このように、『摩訶止観』の陰入界境は心に集約されることになるので、心を観察すること、つまり観心という言葉がしばしば使用される。
 さて、この段の構成について簡潔に説明する。十境の第一の陰入界境に対して、十乗観法を修行するのであるが、全体は、「正しく十観を明かす」と「喩を以て修を勧む」(巻第七下)の二段に分けられる。「正しく十観を明かす」段が主要な部分であるが、この段はさらに「端坐して陰・入を観ず」と「歴縁対境」(巻第七下)の二段に分かれる。そして、「端坐して陰入を観ず」は、「初めに法」と「大車の譬え」(巻第七下)の二段に分かれる。「初めに法」は、「十乗を広く解す」と「総結して示す」(巻第七下)の二段に分けられる。この「十乗を広く解す」の段に、十乗観法が説かれるのである。下に図示する。番号は、第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)と同じものを使う。52b-101cなどは、『大正新脩大蔵経』巻第46巻の頁・段を示すので、これによっておおよその分量を見て取れる。 続きを読む

芥川賞を読む 第41回 『ひとり日和』青山七恵

文筆家
水上修一

静かな筆で描く若い女性の孤独

青山七恵(あおやま・ななえ)著/第136回芥川賞受賞作(2006年下半期)

高齢女性と同居する若い女性の日常

 芥川賞の選考会では、強く推す選考委員が1人、2人いて、否定的な人も同程度いるというケースが多いのだが、この回ではほとんどの選考委員が本作品を推していた。普段は手厳しい評価の多い石原慎太郎さえも驚くほど高い評価だった。23歳という若さで受賞した青山七恵。彗星のごとく現れた才能だ。
 受賞作「ひとり日和」の主人公は、遠縁に当たる70過ぎの女性の家に居候する20歳のフリーターの「わたし」。春から冬までの1年間の暮らしを静かな筆で淡々と描いている。自分はいったい何をしたいのか、自分は何者かさえもよく分からない若い女性が、人生の春夏秋冬を味わい尽くした枯れた年齢の高齢女性と暮らす。
 舞台は、都会の開発に取り残されエリアの一角に立つ古びた木造家屋。その小さな庭の垣根の向こうには、細い道を1本隔てて駅のホームが見える。主人公にあてがわれた辛気臭い部屋の一室から「わたし」は、ホームと電車を眺め、あるいは逆にホームから自分の暮らす古びた部屋を見る。
 2人の恋人に順次去られるという出来事はあったものの、その生活は静かそのものだ。その静けさは、時代から取り残されそうでもあり、若ささえも吸い取られそうだ。
 こうした淡々とした描写から浮かび上がってくるものは、若い女性の孤独や虚無感だ。「ひとり日和」というタイトルが絶妙である。 続きを読む

蓮舫氏はなぜ惨敗したのか――ことごとく失敗に終わった戦略

ライター
松田 明

「2位」にも遠く及ばない惨敗

 東京都知事選挙が終わった。2期目の任期満了を迎えようとしていた現職の小池百合子知事に対し、立憲民主党の参議院議員だった蓮舫氏が立候補を表明。過去30年ほど知名度のある候補者の当選が続いてきただけに、当初はメディアも事実上、蓮舫氏と小池氏の対決になるのではと見ていた。
 ところが投票箱が開いてみると、3期目に挑んだ小池氏が291万8015票で午後8時〝ゼロ打ち〟の圧勝。広島県安芸高田市長だった石丸伸二氏が165万8362票で2位。蓮舫氏は石丸氏の4分の3にしか届かない128万3262票で、小池氏にはダブルスコア以上の大差をつけられ惨敗した。
 東京生まれの東京育ちで20年間も東京を選挙地盤にしてきた蓮舫氏が、接戦に持ち込むことさえ遠く及ばず、なぜこんな結果に終わったのか。朝日新聞は「何が原因かよくわからない」という選対幹部の言葉を報じた。だが、蓋が開くまで大敗を予測できていなかったその〝認知のゆがみ〟こそが、大惨敗の原因のすべてではなかったか。 続きを読む

政規法、迷走を続けた「維新」――党内からも不満が噴出

ライター
松田 明

評価が分かれる改正政治資金規正法

 2024年も折り返し地点を過ぎた。
 今年前半の最大の政治的イシューは、やはり「政治資金規正法」の改正だろう。そもそもは、自民党の一部派閥において政治資金パーティーのキックバック分に関する政治資金収支報告書への不記載が発覚したことが発端だった。
 2023年12月には、東京地検特捜部が約1年の内偵を経て強制捜査に乗り出し、年明けには政治資金規正法違反(虚偽記入)の罪で国会議員3人、会計責任者ら7人の計10人を起訴・略式起訴した。
 同時に、政党から役職者議員らに対して〝領収書なし〟で資金が提供される「政策活動費」の是非も取り沙汰された。こうした不透明な資金の動きは自民党だけでなく、立憲民主党や日本維新の会、国民民主党、社民党やれいわ新撰組などでも確認された。「政策活動費」に類する支出を党内で容認していなかったのは、公明党と日本共産党だけである。
 年末年始と、これら〝政治とカネ〟をめぐる出来事が連日報道されると、国民の政治不信はかつてなく高まった。
 通常国会が開幕し、まずは与党内、ついで与野党間で、激しい論戦が交わされた。最終的に自民党案、立憲民主党・国民民主党案、日本維新の会案の3案が審議入り。国会閉幕ギリギリの6月19日、改正政治資金規正法が成立した。 続きを読む