謎の書『方便心論』
『方便心論』という書物がある。漢訳のみが現存し、著者は大乗仏教の代表的な哲学者・龍樹とされているが、真偽のほどは定かではない。分量は漢字で8000字と短いが、論理学に関することが書かれているということ以外、内容も判然としない。まさに謎の書である。
著者はインドの正統バラモン思想に属するニヤーヤ学派(論理学派の)研究者であったが、数年かけて『方便心論』に徹底して取り組み、古代インドで繰り広げられた論争の過程を詳細にふまえ、これまで知られることのなかった龍樹像を明るみに出すことに成功した。本書は一般読者に向け、そのエッセンスをわかりやすく伝えたものだ。
ここで出てくるのが、伝家の宝刀、対機説法という技である。「対機説法」というのは、相手の問いかけにあわせて答える方法である。「言い争う論法」を提示して示すチャラカに対しては、それにあわせて対応させて「言い争わない論法」というのを説いて示す、というアクロバチックな技がくり広げられることになる。(本書97ページ)
著者は、『方便心論』は龍樹が著した論争の書であり、その相手は主に『チャラカ・サンヒター』という医学書を編纂した医師・チャラカと推定する。だが医師といっても現代とは大きく異なる。病因を正しく推理するための論理学や人間の本質を考える伝統的なバラモン哲学、医師としての名声を得るために相手を徹底的に打ち負かす陰険な論争術など、これらを総合的に身につけていた。
龍樹はなぜ医師であるチャラカと論争したのか。著者はその理由を龍樹もまた医師であったからと考える。 続きを読む