書評『希望の源泉 池田思想②』——「反体制」への誘惑を退ける

ライター
本房 歩

「哲学の大空位時代」

 池田大作SGI(創価学会インタナショナル)会長の『法華経の智慧』の連載が、創価学会の機関誌『大白蓮華』ではじまったのは、1995年2月号からである。
 折しも、第二次世界大戦の終結から50年。
 自民党の長期単独政権は93年夏に終焉しており、下野した当時の自民党は、日本社会党の党首を首班に担ぐという奇策で政権復帰を果たしていた。
 そうしたなかで、1月17日に近畿地方で大都市直下型の阪神・淡路大震災が発生。3月にはオウム真理教によって同時多発的に東京の中枢で猛毒サリンが撒かれる地下鉄サリン事件が起きた。さらに警察庁長官が何者かに狙撃され重傷を負った。
 世界を見渡せば、東西冷戦が終わったことで〝重石〟が外れ、復古主義的なナショナリズムが強まり、一部の宗教宗派もまた偏狭な民族主義に侵食されつつあった。
 日本国内も世界も、それまでの安定や秩序が大きく崩れ、強い不安感と危機意識に覆われていたのである。
 こうした時代状況を、神聖ローマ帝国の皇帝が実質的に空位だった13世紀の「大空位時代」になぞらえ、池田会長はこう語っている。

 冷戦後の今は、「哲学の大空位時代」とも言える。指導的哲学がなくなってしまった。ゆえに、今こそ私は、古来「経の王」と言われる法華経を語りたいのです。(『法華経の智慧(上)』

悲観主義に陥らない耐性

 それから四半世紀が経った今、世界はさながら再びの冷戦時代に逆戻りし、混沌を深めている。
 だからこそと言うべきか、この『法華経の智慧』は、いささかも古びるところなく、いよいよ時代の指標として、各国語に翻訳され、文字どおり世界中で研鑽されている。
 そして日本でも、作家であり元・外務省主任分析官である佐藤優氏によって、これを丹念に読み解く作業がはじまっている。
 プロテスタントの神学者によって『法華経の智慧』が考察され活字になる時代が到来しようとは、25年前の連載開始時、誰が想像しただろうか。
 佐藤氏は本書『希望の源泉・池田思想②』の「まえがき」にこう記している。

 新たな核軍拡の危機に人類は直面している。しかし、われわれは悲観主義に陥ってはならない。現在、現実主義と国家主義に過度に振れている振り子を、理想主義と国際主義の方向に戻さなくてはならない。そのための思想的耐性をつけるうえで、われわれは『法華経の智慧』から多くを学ぶことができる。(『希望の源泉・池田思想②』)

 この第2巻では、法華経の薬草喩品から見宝塔品の範囲が扱われ、氏の外交官時代の見聞やキリスト教神学からの視点を織り交ぜながら、創価学会における「座談会」「師弟」「折伏」などが自在闊達に語られる。
 まず、初代会長の時代から学会が重要視してきた座談会について、氏は「集合知」という概念に重ねてこう語る。集合知の優れた入門書『群衆の智慧』(角川EPUB選書)に触れて、

 著者のジェームズ・スロウィッキーは、集合知が生まれる条件として、意見の多様性、独立性、分散性、集約性(個々の意見を集団のものに統合するメカニズムがあること)の四つを挙げています。
 私は、学会の座談会はこの四条件を兼備していると思います。世代も職業も立場も多様な人々が集い、多様な意見を自由に語り合う場であり、なおかつ、師である池田会長の存在という共通項によって「統合」されているからです。(同)

 また、巷間定着している「日蓮の辻説法」についても、一対一ではなく不特定多数に向けて一方的に語りかけるというのは、対話を重視した日蓮に似つかわしくなく、歴史的実証性もないことに言及している。

平等で双方向な師弟関係

 創価学会における師弟の関係。すなわち、現在で言えば池田会長と学会員の関係について、世間ではカリスマ的なリーダーが人々の上に絶対者として君臨しているように考えている人が多いのではないだろうか。
 佐藤氏の洞察は秀逸である。

 どちらが上、どちらが下というのではなく、中心に池田会長がいらっしゃって、そこから平等に広がっていく関係なのですね。しかも、師が弟子に何かを与えるという一方通行の関係でもなく、弟子たちの活躍によって師の偉大さが証明されていくというインタラクティブ(双方向的)な関係でもあります。(同)

 歴史の常として、宗教運動が一定の勢力を持ってくると、必ず体制側から弾圧を受けることになる。為政者にとって、これまでの秩序を揺るがす思想、コントロールの及ばない勢力というのは脅威だからだ。
 佐藤氏は、創価学会の三代の会長がそれぞれ大きな難を受け、それを乗り越えるごとに学会は発展してきたとしたうえで、こう述べている。

 私は三代会長、特に池田会長が難を乗り越えるその〝乗り越え方〟から、われわれキリスト教徒が学ぶべき点が多いと考えています。というのも、〝ただ難を耐え続けて、最後には玉砕も厭わない〟などという考え方を、池田会長は決してなさらないからです。(同)

 この佐藤氏の見立ては非常に重要である。

国家主義を相対化する思想

 創価学会が支援する公明党が自民党と連立を組んで、すでに20年が経つ。自民党を批判する人々のなかには、創価学会が「反体制」の側につかないことを非難する声が少なくない。
 そこにある落とし穴を、佐藤氏は指摘する。

 歴史を振り返っても、権力から弾圧を受けた宗教団体が、反体制化と玉砕の道を選んでしまう例が少なくありません。それは、そのほうが宗教者として正しい道であるかのように思い込みがちだからです。そこにはいわば、宗教者を玉砕の道に引きずり込む〝悪魔の誘惑〟のようなものがあるのです。
 しかし池田会長は、創価学会が権力から弾圧を受けたとき、その〝誘惑〟を退けて現実的改革の道を選びました。そのような「難との向き合い方」にこそ、池田会長が偉大なリーダーであるという一つの証左であると、私は思います。(同)

 池田会長は民衆をアジテートして権力と衝突させるような道を選ばなかった。世間の非難を一身に引き受けながら時間を稼ぎ、ひたすら国内外で人を育てることに専心した。
 その膝下から実力と人望を持った人材をあらゆる分野に輩出することで、社会の信頼を勝ち取り、人々と合意形成をしながら社会に貢献し改革する道を選んだのだ。

「反体制的にならず、体制内改革を進めていく」ことが、世界宗教の大きな特徴であるからです。(同)

 池田会長の『法華経の智慧』が刊行された90年代後半、日本でも国家主義的な空気が高まっていた。
 この時期、池田会長は繰り返し国家主義への警戒を語っている。
 そして1999年、まさにその敵前に上陸するようなタイミングで、学会の支援する公明党は連立与党に加わるという判断を下すのである。

 池田会長の「人間主義」は、国家主義の対極にあるものと言えます、言い換えれば、池田会長の思想とは〝人間主義によってナショナリズム(国家主義)を相対化する思想〟なのです。(同)

 折しも『AERA』(※注)でも佐藤氏の連載「池田大作研究」がはじまった。
 池田会長の思想がなぜ世界に広がり、創価学会が世界宗教化しているのか。虚心坦懐に佐藤氏の言葉に耳を傾けてみてはどうだろう。

※注…『AERA』(2019/12/30-1/6 合併号)より連載開始

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