小学生のころ、門のある大きな家が並ぶ住宅街を歩いていると、ピアノの音が聴こえてくることがあった。僕は、それを弾いている人を想像した。たぶん少女で、髪は長く、白いブラウスを着て、赤いスカートを身につけている。そして、なぜか、白いハイソックスを履いている。
傍らには、美しい母親がいて、少女がピアノの練習を終わると、おやつを運んで来る。それは、どうしても、苺ショートと紅茶でなければならない。僕は、そんな生活とは無縁の、貧しい長屋暮らしだったので、よけいに妄想をたくましくした。
あるとき、酒場へ出勤するため、化粧をしていた母に、ピアノを習わせてほしいと頼んだことがある。彼女はふんと鼻で笑って、貧乏人の子供がピアノ習うてどうするんや、と手を休めずに言った。
母は何気なく言ったのかも知れない。夫を亡くして、女手ひとつで2人の子供を育てている彼女にしてみれば、いまの暮らしが精一杯で、ピアノを習わせる余裕などなかったのだろう。
でも、僕は傷ついた。それから僕にとって、ピアノは特別な何かになった。
中学生になったとき、懸命に働いてきた母は家を買った。僕の部屋もあった。そこにはオーディオセットもあり、僕は小遣いで月に1枚はレコードを買って、好きな音楽を聴いた。当時はロックが全盛の時代で、僕のコレクションにはピンクフロイドやCCRやスリードッグナイトやELPが入った。
心に響いたのは、生活感のある詩に、シンプルな曲をつけた、いわゆるフォークソングと呼ばれるジャンルで、僕もギターを買って好きな作り手たちの歌をうたった。
まだ小説と出会うまでには間があって、僕はずっと歌をうたって生きていくのだと思った。ウディー・ガスリーやボブ・ディランのように、ギターひとつを抱えて、世界を放浪する生き方に憧れた。
そんなある日、親しい友人の家へ遊びに行ったとき、これ、聴いたことある? と彼はカセットデッキのスイッチを入れた。それはピアノ曲で、とてもデリケートに始まり、美しく、甘く、続いた。バッハの『ゴルトベルク変奏曲』だった。
僕は、夢見心地で聴き入った。そんな種類の音楽を聴くのは初めてだった。友人はカセットテープのケースを見せて、グレン・グールドや、と言った。そうか、と僕は言った。そのうち猛烈に悔しさが込み上げてきた。
僕は、こんなピアノが弾きたかった、ほんとうは、こんな音楽がやりたかったのだ、と思った。ウディー・ガスリーやボブ・ディランは、いつの間にか消えていた。ギターはピアノの代わりに過ぎなかった。
友人は、グールドについての伝説を教えてくれた――カナダ生まれ。1955年に『ゴルトベルク変奏曲』で本格的にデビューする。飛行機嫌い。自分で自動車を運転することを好んだ。暑い日でも、手袋をし、コートを着て、マフラーを巻いていた。
1964年、32歳で公開での演奏会から引退し、スタジオでの録音に力を注ぎ、次々にすばらしいアルバムを発表する。グールドは、こう考えていた。
「演奏会の役割はすでに電子メディアに引き継がれた(あるいはじきにそうなる)し、抜群の分析的な透明感、即時性、触知できるほどの響きの近接感、そして広範なレパートリーは、録音メディアでこそかなう」
彼は公開での演奏会こそ引退したものの、精力的に活動した。ラジオ番組を制作し、自分も多くのテレビやラジオにも出演。映画音楽もつくる。鋭い音楽批評も書く。
ピアノを弾く際は、愛用の木製の椅子の脚の長さを念入りに調整し、ほとんど床に坐っているような格好で、興が乗ってくると、ときに歌い出す――指揮者のジョージ・セルは「あいつは変人だが天才だよ」と評した。
『グレン・グールドは語る』の著者ジョナサン・スコットは、ファンレターを書くほどの彼のファンだった。そして、1974年の3日間、6時間に及ぶ電話インタビューを行い、『ローリング・ストーン』誌に掲載した。
ここにはグールドの生の声がある。語られた内容は、ほぼ音楽に関する専門的なものだが、グールドは率直に、自分の仕事振りについて応えている。ライブで観客を沸かせるのとは反対の、数学的と言っていいほど計算された音楽の作り方がここにある。
晩年のグールドは、あるビルの、秘密の録音スタジオにこもっていたそうだ。天才にまつわる逸話は、最後まで興味が尽きない。
告白しよう。僕は、天才になりたかったのだ。
参考文献:
『グレン・グールドは語る』(グレン・グールド/ジョナサン・スコット/宮澤淳一訳/ちくま学芸文庫)