真に尽力しているのは誰か
入院中であった周恩来総理が医師団の反対を押しきってまで、池田大作・創価学会会長と会見したのはなぜか。
中国を代表する歴史学者であり「史学大師」とまで称された章開沅・華中師範大学元学長は、
中日友好を何よりも重視した周総理は、中日友好のために真に尽力している人は誰なのかを知っておられたのでしょう。だからこそ、重い病の身を押して、池田先生とお会いになられたのだと思います。(『人間勝利の春秋』第三文明社)
と述べている。
1949年10月に中華人民共和国が建国された。だが、日中戦争で筆舌に尽くしがたい暴虐をはたらいた日本との関係は絶たれたままであった。
1951年のサンフランシスコ講和会議で、日本は連合国との間に平和条約を結んだことになっている。しかしソ連は条約に調印せず、中華人民共和国と中華民国(台湾)はそもそも会議に招待されていない。
しかも、翌52年に米国の強い要求のもと、吉田茂内閣は「日本と中華民国との間の平和条約」だけを締結して外交関係を樹立した。
中国政府や世論は激しく反発したが、周恩来総理は日中国交正常化へのカギは日本の民衆にあると考えていた。いわゆる「以民促官(民をもって官を促す)」との発想である。
1955年に国際民主婦人連盟のユージェニー・コットン議長と会見した周総理は、日中関係について、
人民が往来するだけでなく、人民が政府に影響をおよぼし、政府の態度を改めさせて初めて、両国は友好的になります。(『周恩来、池田大作と中日友好』)
と発言している。
創価学会に注目した周恩来
日本のなかにも、国交正常化を願って行動した先人たちがいた。経済企画庁の初代長官などをつとめた高碕達之助氏や、戦後の幣原内閣で農林相をつとめた松村謙三氏らである。
周総理の指示のもと、1962年には廖承志氏と高碕達之助氏が「中日長期総合貿易に関する覚書」に調印。これによって両国間の貿易が大きく進むことになり、両氏のイニシャルをとって「LT貿易」と呼ばれた。
周総理に高碕氏を紹介し、LT貿易の調印の地ならしのために粉骨砕身したのが松村謙三氏だった。
一方で、この時期に日本国内で日中友好を口にすることは極めて厳しいものがあった。
1960年10月には、親中派と目されていた浅沼稲次郎・日本社会党委員長が、日比谷公会堂での演説中に右翼の少年に刺殺されている。
こうしたなかで、周総理が注視していたのが創価学会の存在だった。
高碕、松村の両氏からも、また交友のあった作家の有吉佐和子氏からも、創価学会について肯定的な見解を聞かされていた。
さらに周総理はLT貿易日本事務所に派遣していた孫平化氏からも学会に関する報告を受けると、さらに研究調査を進め、学会と友好関係を持つように指示している。
63年9月、創価学会本部に池田会長を訪ねた高碕氏は、日中国交正常化への強い思いを語り、その力となってもらいたいと期待を述べた。氏は翌年2月に逝去している。
また66年には有吉佐和子氏を通して、周総理から池田会長へ訪中を要請する伝言が届けられていた。
しかし、開きかけた日中関係の前途には暗雲が広がりつつあった。64年に発足した佐藤政権は中国敵視の政策を掲げる。中国でも急進的な文化大革命の混乱が広がって、周総理も強硬な外交姿勢を強いられていた。
67年にはLT貿易の5年間の期限が切れ、68年2月の交渉では新たな期限が1年に短縮されてしまう。
状況を打開した「池田提言」
こうした危機的な状況のなかで、1968年9月8日、池田会長は創価学会の第11回学生部総会の席上、1万数千人の学生を前に「日中国交正常化提言」をおこなったのである。
9月8日という日は、その11年前の同日、恩師・戸田城聖第2代会長が「原水爆禁止宣言」を発表した日であった。
会長の提言の要旨は、次の3点だった。
①中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。
②国連における中国の正当な地位を回復すること。
③経済的・文化的な交流を推進すること。
この提言は「光明日報」記者の劉徳有記者によって打電され、新華社発行の海外報道紙「参考消息」9月11日付の1面に大きく報じられた。
すでに日本最大の民衆運動に発展していた創価学会のリーダーの発言だけに、日中友好に取り組んできた日本側の人々も大きな希望を得た。
中国文学者の竹内好氏は『潮』68年11月号に「光はあったのだ」と題する一文を寄せている。
周総理にも、この提言の内容は報告された。日本の民衆の力に望みを託していた総理の思いに、池田会長が応えたのである。
同時に予想通り大きな反発も生まれた。
創価学会本部には脅迫電話や脅迫状が相次ぎ、右翼の街宣車が押し寄せた。
アメリカ政府と日本政府は「池田提言」に対して強い不満と憂慮を表した。九月十一日と十二日、すなわち池田提言から三日目と四日目に、日米安全保障会議が緊急招集された。この会議の席上、一つの極秘文書が出された。「池田大作と創価学会の民間外交は、日本外交の障害になっている」と断言されたものだった。(『周恩来、池田大作と中日友好』)
公明党が交渉役になれた理由
1970年3月、すでに87歳になっていた松村謙三氏が渋谷区内の創価学会施設に池田会長を訪ね、訪中を要請した。
日中の後事を託すべき人を求めていた松村氏は、ぜひとも周総理に紹介したいと会長に語った。
だが会長は国交正常化は政治次元の問題であるとし、宗教者の自分が行くのではなく公明党を推薦したいと述べた。
松村氏はこの9日後に訪中する。周総理からは松村氏に「池田会長の訪中を熱烈に歓迎する」との伝言が託された。
翌71年6月、公明党代表団の初訪中が実現。周総理みずからが訪中団を迎え、公明党の示した5原則を基調として共同声明を出すよう中日友好協会に指示した。
共同声明が調印されたのは、ニクソン大統領が日本政府の頭越しに訪中の意向を電撃的に発表する2週間も前のことである。
結党してまだ7年に満たない野党の公明党を、日中国交正常化へのパイプ役に選んだのは周恩来総理であった。
この公明党との折衝に通訳として同席し、のちに中日友好協会副会長などをつとめた黄世明氏は、1999年に南開大学周恩来研究センター王永祥所長らのインタビューにこう語っている。
公明党は池田先生が創立した政党です。彼らが正式に訪中できたのは、池田先生の六八年の講演があったからです。(『周恩来と池田大作』)
池田先生の発言と指示があったからこそ、公明党は中日国交回復五原則を日本に持ち帰り、交渉できたのです。(同書)
72年7月に発足した田中角栄内閣が、わずか2カ月後の9月に日中国交正常化を実現できたのは、周総理の池田会長への信頼に基づく公明党を介した意思疎通ができていたからである。
「『周―池田』会見45周年」:
「周―池田」会見45周年(上)――文献的に確定した会見の意義
「周―池田」会見45周年(中)――日中国交正常化への貢献
「周―池田」会見45周年(下)――池田会長が貫いた信義
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