僕が山下清のことを知ったのは、TVのドラマが最初だった。確か、『裸の大将放浪記』というタイトルだったとおもう(間違っていたらごめんなさい)。軽度の知的な障害を持った主人公が全国を放浪しながら、地元の人々と温かな交流を重ねる様子を描いた番組だった。
主人公が、画家の山下清であるところがポイントで、坊主頭の、半ズボンにランニングを着たみすぼらしい男が、著名な芸術家であることが分かると、水戸黄門が印籠を出したときのように、人々の態度が一変する趣向だった。
その後、僕は山下清の作品を何度か見て、感心した覚えがある。ジャン・デビュッフェがアール・ブリュットという概念を提出し、精神的な障害を持った人々、アカデミックな美術教育を受けたことのない人々の作品が注目されるようになった。
このコラムでもアウトサイダーアートのことを取り上げて、そのなかでも有名なヘンリー・ダーガーについて書いた。彼らは、誰からもオーダーを受けたわけではないのだが、みずから表現することを選んだ人々である。山下清は、そういう存在の先駆的な人物といえる。
彼は絵だけではなく、文章もけっこう残している。このあいだ人から勧められて、『山下清の放浪日記』を読んでみた。これがいろいろと考えさせられる作品だった。
もうこのコラムでは何度か書いているが、鶴見俊輔の「限界芸術(マージナルアート)」という概念がある。「純粋芸術(ピュアアート)」と「大衆芸術(ポピュラーアート)」の基礎にある領域で、純粋芸術も大衆芸術も、限界芸術から養分を汲み上げて、芸術として成り立っている。
「限界芸術」とは、芸術のもっとも本源的な領域であり、ここから養分を汲み上げないと、「純粋芸術」も「大衆芸術」も、芸術として枯渇していくのだ。
『山下清の放浪日記』(以下、『放浪日記』)は、「限界芸術」だとおもう。これは日記という形式とも関わりがある。文学の領域における「限界芸術」のおもな作品には、手紙や日記があるのだ。より生活に根差しているのが、「限界芸術」である。
『放浪日記』は、山下清が入所していた施設から脱出し、あちこちを放浪した記録だ。彼がおもしろいのは、ふらりと逃れて、ふらりと帰って来るところにある。帰って来ると、施設の作業として文章を書かなければならない。それが『放浪日記』として残った。
文章を読んでみると、言葉が彼の実存と繋がっているという印象がある。飾りも、てらいも、ない。ただ、見たこと、聴いたこと、あったことを、そのまましるしていく。働かせてくれる家を見つけて、こう書く。
そこの家でご飯を食べさして貰って仕事を教えてくれました。里芋の洗い方を教えてくれました。馬のえさを造るので藁をこまかく切るのを教えてくれました。僕は風呂をたきつけて、おばさんの夕飯の支度を手伝いました。僕は今迄、長い間学園に居たので、はじめてかわった所を見られて珍しく思いました。
結局、この家の主が帰って来て、うちは貧乏だからよそで使ってもらえと追い出される。
又、方々の家へ行って、人を嘘を云ってだまして、ふかし芋を貰いました。煙草屋で聞いたらば五十銭札をくれました。ほかの家へ行ってみたらば二銭貰って、「此処の道を真っ直ぐ行くと馬橋へ行かれるから、馬橋の大通りへ行くと家が沢山並んでいるので、そこへ行けば使ってくれるかもしれない」と云われました。
こうして山下清は放浪を続ける。そのあいまにふらりと施設へ戻り、日記を書き、貼り絵を作り、あるときから貼り絵が評価され、天才児として注目されるようになった。
画家の眼が利いているとおもえる文章もある。
花火のあがる時には、はじめ火の玉が一つ高くあがって、それが破裂すると火が花のように開くので、火で出来てる花だから花火と云うので、みていると美しくて面白い。花火があがったと思うとすぐ消えてしまって、消えたかと思うと、又花火があがって、すぐ消えてしまって、又花火があがるので、花火には大きくひらくのと、小さくひらくのと、一度に一発あがるのは普通で、一度に五、六発もあがる時もあるので、五、六発もあがった時はもっと美しくて面白い。花火には仕掛け花火もあるので、仕掛花火があがった時は、字や絵の形が出来て居て美しくて面白い。
花火を「美しくて面白い」と書くのは、チェーホフが海を描写するのに、「海は広かった」と書いたのと共通するところが感じられて、それこそ僕にとっては、大変に「美しくて面白い」。
実存に繋がっている言葉を探っている僕は、山下清の文章に惹かれる。しかし彼のような境地に到るのは、なかなか難しいのだろう。
参考文献:『山下清の放浪日記』(池内紀編・解説/五月書房)