家族新聞をつくっているという話を、たまに聞くことがある。実際、僕の知人は2人の子供が小学生のとき、父母も加わって新聞を製作していた。記事の一部を読ませてもらったことがあるが、母親のダイエットが失敗する逸話などがあって、とても微笑ましかった。
こういう営みが家族の絆を強くすることは推測できる。どの家庭でもそういうことをすれば、家族の心のすれ違いなどは、最小限にすることができるのではないか、とおもうが、なかなか実行するのは難しい。
今回、取り上げる『詩集「三人」』は、家族詩集の試みだ。詩を寄せたのは、金子光晴、妻の森美千代、息子の森乾の、文字通り3人。
金子光晴はよく知られた詩人だが、知らない人のために短く紹介すると、第二次大戦前から反戦・抵抗の詩を綴った詩人で、戦時中は、いわゆる「干された」状態にあったが、戦後になって注目され、評価が定まった。
森美千代は、作家としても活躍していて、金子光晴の収入のない時代は、彼女が生計を支えていたらしい。乾は、両親の影響で文章を書くようになり、のちに早稲田の教授を務める。
金子光晴も、森美千代も、恋多き人で、それぞれ別の人に心を惹かれ、結婚・離婚を何度も繰り返し、最終的に元の鞘に収まる。そんな家族が編んだ詩集は、どのようなものだろう。
干されていた戦時中、金子光晴は発表の当てもない詩をノートに書き続けた。戦火を逃れるため、弟子に写本を作らせていて、それは通称『疎開詩集』と呼ばれる。著者は跋文(ばつぶん)に、こうしたためた。
主として戦争中に作られた詩編をあつめたもの。この時代の困難のために、この詩集は日のめをみないだらう。詩集は朽ちるかもしれない。しかし、詩集にある魂はくちないだらう。それは作者の天稟のたまではなくて、この魂は人間がみな抱いてゐる真実だからだ。いつかまた人は自分をふりかへる時がくるだらう。それはもはや文学だけの問題ではない。
知人の編集者が逮捕され、空襲がひどくなり、「この戦争では犠牲になりたくない」とおもった金子光晴は、1944年12月に美千代と乾を伴って、山梨県山中湖畔の旅館へ逃れた。家族は、ここで1年4カ月を過ごすことになる。
『詩集「三人」』は、無記名の詩=金子光晴、チャコ作=美千代、ボコ作=乾の詩が並んでいる。B6判の200ページ。すべて金子光晴の手書き。きちんと装本もしてある。彼らがどのような思いで詩を書いたか。少し引いておきたい。
おもひでの唄
母はボコを抱いてゐた。
甘い乳のにほひと、
ぬれた薔薇の柔らかさ。
父はそれを抱きとつた。蒼空のなかに
ボコをさし上げれば、
天使がきてすぐ、
それを抱きとつた。父は破れた丹前(どてら)の
ふところのなかに入れて歩いた。
ボコはそこで
すやすやと眠つた。父と母の貧乏も、
愛の苦渋も、
ボコにはよそごとだつた。
父と母があるならば。
ここには、聖家族とでもいいたくなるような、家族の光がある。
幸い、家族は戦争の犠牲にならなかった。敗戦後の日本で、また家族としての営みを続けた。ちなみに、この詩集は、私家版として1冊だけ手作りされたもので、あるとき古書市で発見されたのだという。それも家族の光がもたらした偶然ではないだろうか。
参考文献:
『詩集「三人」』(金子光晴・森美千代・森乾著/講談社文芸文庫)