沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第35回 次世代を担う沖縄空手家群像(下)

ジャーナリスト
柳原滋雄

 3回にわたって紹介してきた沖縄空手の未来を担う次世代の空手家の紹介は今回で最終となる。

上地流宗家を継ぐ4代目

上地流宗家の上地完尚さん

 沖縄伝統空手の三大流派の一つである上地流の宗家は、中国で基礎を学んで持ち帰った上地完文(うえち・かんぶん 1877-1948)、その子で流派としての技法を集大成した2代目の上地完英(うえち・かんえい 1911-91)、さらに3代目の上地完明(うえち・かんめい 1941-2015)へと引き継がれた。
 2016年6月に4代目宗家を受け継いだのが、完明の長男である上地完尚(うえち・さだなお 47歳 1971-)である。
 小学校低学年のころから父・完明に連れられて2代目の完英が指導する普天間道場(宜野湾市)に通った。本格的に空手にのめり込むのは中学に入ってからで、主に父親を通して空手を習得した。祖父の完英からも三戦(サンチン)、完子和(カンシワ)、補助運動などを直々に習ったという。
 大学時代は本土の宮崎県ですごし、高校時代から行ってきたハンドボールを継続。空手はもっぱら一人稽古を続けていたという。中学・高校のころからいずれ継ぐことになるとの葛藤が芽生え、大学時代は周囲に空手をやっていることをまったく伝えないまま、時間のあるときに黙々と稽古を続けたと語る。
「2代目はとても優しい人」で、口数が少なく、一度も怒られた記憶がない。いつもニコニコとして、テレビの相撲中継を見ている姿が印象に残っているそうだ。反面、父親の性格は頑固で、とても厳しかったという。父は宜野湾市役所に勤める役人で、「今の世の中、道場だけでは生活していけない」と、定職に就くことを常々勧めた。

 2代目までは空手だけで食べていました。道場に入りきれないくらいの生徒がいた時代です。

 完尚は、米軍基地の仕事を20年以上。仕事は割合融通が利くので、年に1~2回、海外指導に行くことが可能だ。行先は主にアメリカやフランス。フランスのパリにはヨーロッパ支部があり、近隣の国々から門下生が集まる。
 3人兄弟の長男として生まれ育った。下の弟2人も空手を続ける。昨年夏に開催された第1回沖縄空手国際大会では、下の弟の上地完司(うえち・かんじ 1973-)が「競技で勝つことより上地流の宗家の型を見せたい」と果敢に出場、宗家に代々伝わる型を演じ、関係者の間でも話題にのぼった。
 好きな型は、十六(セーリュウ)と十三(セーサン)。自分にとっての空手とは、「先祖がつないできたもの」「切り離せないもの」との言葉が返ってきた。
 自身の子ども3人も男の子で、全員空手を続けているという。2代目から4代目まで、すべて長男が宗家をつないできた上地流。偶然かもしれないが、男子に恵まれた家柄といえよう。

空手と古武道の両方を伝える

「守道館」総本部館長の伊波光忠さん

 うるま市の守道館総本部で館長をつとめる伊波光忠(いは・みつただ 47歳 1971-)は、5歳のときから父・伊波光太郎(いは・こうたろう 1939-)のもとで空手と古武道を習った。光太郎は18歳で知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885-1969)の門下となり、戦後は、比嘉佑直(ひが・ゆうちょく 1910-94)に師事した。
 そのため空手は比嘉系の小林流、古武道は知念真三良(ちねん・まさんら 1842-1925)、大城朝恕(おおしろ・ちょうじょ 1887-1935)の流れを組む「琉棍会」を組織する。
 180センチの大柄な肉体から繰り出す棒術などで名を知られる。小学時代は野球と剣道、中学は剣道、高校に入ってからバスケットと剣道をかけもちするなど多くのスポーツで基礎体力を身につけた。
 2003年、32歳で総本部館長を引き継いだ。道場は県内に5カ所。同じ琉球古武道といっても、平信賢系と異なり、佐久川の棍、周氏の棍などに大と小の区別がない。

 空手と古武道は車の両輪。空手だけやっている場合よりも、古武道を習うと、体の使い方を含め、広がりが、まったく違ってきます

と持論を述べる。
 空手の型はどちらかというと腰高で、武器を使うには腰を落とすことが必要になるので、そうした習慣が身につくことで格段に安定感が増すと説明する。
 さらに棒やサイといった古武道のメインの武具だけでなく、トンファー、ヌンチャク、鉄甲、かま、エークなど多彩な武器の使い方にふれる中で、古武術の醍醐味を味わえると強調する。
 この武具にこの武具で戦ったらどうなるだろうかと頭の中でシミュレーションするのが、たまらなく面白いと目を輝かせる。
 火・木の週2回は自ら道場で指導し、月水金は父親・光太郎の指導のもと、生徒として稽古を続ける日々。稽古は空手と古武道を分けず、時間内で両方の稽古を行うのが特徴だ。
 空手の好きな型はクーサンクー小と即答。糸洲安恒(いとす・あんこう 1831-1915)がアレンジした型とされ、素手で棒取りするなどの古武道に似た軽快な動きが気に入っているという。
 逆に古武道で好きな武具を尋ねると、しばらく考えて、「鉄甲や鎌が好きです」との回答が戻ってきた。
米軍の嘉手納空軍基地に勤務するかたわら、年に2回は1週間ほど海外指導に出かける。毎年のようにアメリカ東海岸へ、先日もアルゼンチンを訪問したばかり。

 沖縄の文化として、空手・古武道の知名度をもっともっと上げていきたい。

 空手と古武道が一体となっているのが、伊波の持ち味である。

町道場から全国レベルの選手を多く輩出

「拳龍同志会」を主宰する新城孝弘さん

 拳龍同志会(沖縄市)の創設者である新城孝弘(しんじょう・たかひろ 1956-)は14歳で首里手系(少林流)の空手を始めた。若いころは東京で調理師をしながら、本土の松濤館空手にもなじんだという。沖縄に戻ってきてからは泊手の師匠のもとで稽古に励み、その後、剛柔流の久場良男・拳法会会長(くば・よしお 1946-)に師事する。
 その意味では昔の空手家と同様、流派という感覚があまりないと語る。拳龍同志会といえば、沖縄空手の町道場ながら、競技空手の世界で多くの実績を残してきたことで知られる。設立は1983年。これまで型や組手など全国大会での入賞回数(優勝、準優勝、3位)は29回におよぶ。
 来年の東京オリンピックの型部門での金メダルが有力視されている喜友名諒(きゆな・りょう 1990-)選手も、幼稚園から中学までこの道場ですごし、中学時代に日本一になった経験をもつ一人だ。
 新城は実戦で使えない空手は意味がないとの考えの持ち主で、空手の武術性を重視する一方、子どもたちを指導する際は、目標の存在を常に意識。試合に出すことで、明確な目標を持たせ、いい結果を出すことで、高校や大学への推薦入学の道も開かれるという好循環を意識する。その結果、安定した仕事にも就き、生涯空手を続けられる人生基盤ができる。新城はそこまで考えて競技指導を行っていると語る。
 入門してきた子どもたちには、体型や柔軟性、跳躍力などその子に合わせた流派の型を個人指導する。

 沖縄でいうところの伝統空手と、本土でいうところの伝統空手はだいぶ違います。

 あくまで沖縄本来の武術性のある空手を大事にしてきた。具体的には、突き蹴りだけで勝負がつくようなルールに守られた空手の発想ではなく、裏技、返し技、関節技など、空手のもつ高度なワザによって相手を制圧する技術を熱心に研究してきた。
 その上で自身では、泊手の技術体系が体質に合っていると語る。いちばん得意な型を尋ねると、泊のパッサイという答えが返ってきた。泊手はスピードと技のキレ味が求められ、「直線で入って、円に転化する技術体系」と説明する。
 若いころは上地流など他流の組手試合にもよく出た。若気の至りともいえるストリート・ファイトの経験もすべて生きている。多くの経験が指導に生かされ、沖縄では珍しく、空手だけを職業にして20年になる。沖縄の空手「専業」者としては最も古いほうかもしれない。一町道場ながら、本土や海外の空手家がしばしば修行に訪れるという。
 長男の新城武(しんじょう・たけし 1987-)は昨年から、韓国の空手ナショナルチームのコーチとして招聘され、隣国から東京オリンピックの選手育成をめざす。

 沖縄の伝統空手の町道場は生徒数の少ないところが多い。だからこそ競技で実績を出せば、本土からはさすが沖縄は空手発祥の地だけあると評価され、また評価されてこそ生徒も集まり、本来の伝統空手を学ぶ人材も育んでいける。うちでは20代までは競技、30すぎたら技の研究など本来の武術空手に移行するように勧めています。競技と伝統は、空手を続けていくための車の両輪のようなものです

と新城孝弘は語る。
 明確な空手哲学をもつ。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。