岸政彦の名は、なんとなく知っていた。小説の作者としてだ。『断片的なものの社会学』という本が話題になって、手に取ってみたら、彼の本業が社会学者であると分かった。じっくり読んでみて、これは小説にとって手強い相手が現れたとおもった。
本書は社会学の本だ。岸が生活史の聞き取り調査の現場で体験したことがしるされている。体系的な著作ではない。まさに「断片的なもの」が満ちている。冒頭でこんなエピソードが紹介される。
お父さん、犬が死んでるよ。
沖縄県南部の古い住宅街。調査対象者の自宅での、夜更けまで続いたインタビューの途中で、庭のほうから息子さんが叫んだ。動物好きの私はひどく驚きうろたえたが、数秒の沈黙ののち、語り手は一瞬だけ中断した語りをふたたび語り出した。私は、え、いいんですか?と尋ねたが、彼は、いやいや、いいんです、大丈夫とだけ言った。そしてインタビューはなにごともなかったかのように再開され、その件については一言も触れられないまま、聞き取りは終わり、私は那覇のホテルに帰った。
岸は10年の歳月を経ても、庭から聴こえてきた息子の声や語りが一瞬中断したときの対象者の表情、インタビューをしていた部屋の間取りなどを鮮烈に思い出すという。
それはまるでラテンアメリカの作家によって書かれた、「何が書いてあるのかはっきりとはわからないが、妙に記憶にだけ残る短篇小説」のような夜だった。
それは彼の理解を超えた出来事であり、解釈を拒んでいる。それは「ただそこにある」。聞き取り調査の現場では、そういう出来事が無数に起きている。日常生活においては、なおさらだ。
岸は、そういう「分析できないもの」を集めた本を構想していて、この『断片的なものの社会学』を著した。小説にとって手強い相手といったのは、読んでいると、下手な小説など問題にならない文学的な感興を覚えるからだ。
たとえば、ある小さなマンションに暮らす家族がいた。若い夫は暴力団。妻は売春をしていて、2人の小さな子供を隣室に追いやり、自宅で客を取っている。子供たちは、妻の連れ子で、義父からひどい虐待を受けていた。
結局、彼は子供への暴力が原因で刑務所に入った。母親は姿を消して、子供たちは施設に預けられた。そのころ彼らの下の部屋の住人から苦情があった。天井に真っ黒な染みが現れ、ただならぬ悪臭が漂っているという。上の部屋に何かあるに違いない。
マンションの管理会社も立ち会って、自治会の人が部屋に入った。そこには、家具もない、からっぽのきれいな空間があった。
岸は、「からっぽの部屋」のイメージが印象に残っているというが、これなど見事な短編小説である。著者は、「分からない」という言葉をよく使う。僕は、「分からない」のに成立するのは小説の特権だとおもっている。
答えは分からない。しかしこういう出来事がある。小説にはそれが書ける。ところが、岸は、本書でそれを書いてしまっている。うーん、困ったな。末尾のほうにある「物語の欠片」などは、掌編小説集である。
ハンセン病患者が暮らす療養所のロビーに絵が飾ってある。入所者の描いた作品だ。そのなかに、いくつか女性のヌード像がある。構図はどれも同じ。長い髪の女性が向こうを向いていて、乳房が鮮やかなピンクで彩られている。
作者は70代の男性で、これは15歳のときに見た女性の姿であるらしい。彼は、療養所に入所する前の記憶を大切に持っていて、それを絵画に再現していた。
沖縄にあるホームレスを支援する教会には大きな寮がある。入寮者の40%は本土から来た人々だという。彼らはホームレスとして各地をさまよっていたが、やがて暖かい沖縄をめざして来るらしい。
なかには、ここを終(つい)の地と定め、自死をはかる者もいるようで、教会の牧師は、公園で縊死(いし)しようとしていた人を何人か助けた。
こういうエピソードを読んでいると、猛烈に小説が書きたくなる。それは、これらのエピソードが濃密な物語を含んでいるからだ。
小説にとって手強い相手の意味、おわかりいただけただろうか。ま、いいか。岸政彦の仕事で文学が豊かになれば。
参考文献:
『断片的なものの社会学』(岸政彦著/朝日出版社)