先進諸国は長期政権
令和の時代の新しい政治のあり方を考えるうえで、大事なことは〝同じ轍を踏まない〟ということだ。
平成の政治が残した大きな教訓。その第一は、2012年の第2次安倍内閣が発足するまで、あまりに短命政権が続いたことだろう。
内紛が絶えず、毎年のように社長の顔が変わる企業が、業績を上げ、取引先から信頼されるか否かを考えるまでもない。平成元年から民主党政権の末期まで、日本の首相は17回も替わったのだ。
現在の安倍政権が7年目の長期政権になっていることを「独裁」うんぬんと、ことさらヒステリックに批判する人々もいる。
G7の中ではドイツのメルケル首相は2005年から13年以上、政権を担っている。フランスのミッテラン大統領は14年間。イギリスのブレア首相の在任期間は1997年から2007年まで10年だった。
米国大統領は再選された場合8年。中国の国家主席は2期10年だったが、今やその規定も外された。
2000年から2008年まで大統領を2期務め、2012年に再登板したロシアのプーチン大統領は、2024年まで任期がある。
是非はともかく、冷静に世界の主要国と対比すれば、ようやく日本もスタンダードな安定政権になったといえるのではないか。
日露平和条約の締結と北方領土問題、北朝鮮の完全非核化と拉致問題の解決など、現下の喫緊の課題を考えても、日本の内政が安定を欠くことは望ましいことではない。
救助犬より遅い首相
平成政治の教訓の第二は、「能力のない」政権を選択することがもたらすダメージの深刻さである。
リベラルと目されているような政党や政治家が、現実に国民の痛みに寄り添った、あるいは平和を創出する政治をおこなえるのか。残念ながら、平成の政治史はそれが幻想にすぎなかったことを証明して余りある。
まず、最大野党の日本社会党の党首が総理になった1994年発足の村山政権。
阪神・淡路大震災が未明の街を襲ったのは、政権発足の半年後である。午前5時46分に地震が発生し、6時からはNHKなども中継でこれを報じていた。
だが公邸に起居していた村山首相が隣接する官邸に入ったのは8時26分。その後も、9時20分から月例経済報告関係閣僚会議、11時5分から21世紀地球環境懇話会に出席するなど、およそ人命に対する危機意識がない。
首相がようやく会見を開いたのは発災から10時間以上たった午後4時。
当時の高秀秀信・横浜市長が、
国から各自治体への指示は一切なく、神戸市から直接要請を受けた。被害の拡大は、国の指揮機能がないところに原因がある。(「衆議院会議録」平成7年1月20日)
と批判していたことが直後の国会でも取り上げられている。
広範な地域が被災した東日本大震災のケースと違い、都市直下型だった阪神・淡路大震災では、神戸市や芦屋市、西宮市などで壊滅的な被害が出た一方、大阪市内では当日も通常の通勤風景が見られたほどだった。
主要な大企業や創価学会など民間組織は、その日の午前中に大阪や姫路を前線基地にして救援態勢に入っている。
村山首相は19日になってからようやく兵庫県を視察したが、「スイスの救助犬より遅い日本の首相」と海外メディアからも酷評される始末だった。
のちに、民主党政権時代にも東日本大震災が発災する。このとき、民主党政権はやはり対応が後手後手に回り、「遅い、鈍い、心がない」と批判された。
菅直人首相が被災地を訪れた際に人々から罵声を浴びた姿は、村山首相が阪神・淡路大震災の被災地で罵声を浴びた姿と二重写しになった。
辺野古移設を決めたのは民主党
普天間飛行場の辺野古移設をめぐって、今も分断と混乱が続く沖縄。
そもそもの混乱の発端は、総選挙が目前に迫っていた2009年7月、当時の民主党代表だった鳩山由紀夫氏が、玉城デニー候補(当時)の集会で「最低でも県外」と発言したことにある。
この発言で民主党は総選挙で圧勝し、政権の座に就いた。
だが、この発言がいかにいいかげんなものであったか、当の鳩山氏が田原総一朗氏に内幕を語っている。
その直後、私が鳩山に、
「あなたは岡田外相が辺野古しかないと言ったときに、自分には自分の思惑がある。安心しろと言ったそうですね」
と聞いてみました。
「そうですね。そう答えました」
「何か、確かな手がかりとか、根拠があったのですか」
「そういうわけではありません」
鳩山は言いました。
「なぜ自信がないのに言ったんですか」
「周りがみんな大丈夫、絶対いけると言ったからです」
(田原総一朗著『私が伝えたい日本現代史1960-2014』)
その後、民主党政権はこの事実上の「公約」を撤回。鳩山氏は、
学べば学ぶにつけて、(海兵隊が)連携し抑止力を維持していることが分かった。(同)
と述べて、日米の政府間で辺野古移設に合意した。
今日、日本政府が進めようとしている辺野古でのV字型滑走路の建設を決めたのは、民主党政権なのである(※参考記事:「朝日新聞デジタル」2011年1月18日)。
政府間の合意というものは重い。政府と政府が合意したことを数年も経ないうちに反故にしてよいというのであれば、慰安婦問題の合意をめぐる韓国政府の態度の変化も、日本は是として受け入れなければならないだろう。
日米も日中も危機に陥る
先ごろ、立憲民主党、国民民主党、日本共産党、社民党、自由党は、「安保法廃止法案」なるものを参議院に提出した(※「THE SANKEI NEWS」2019年4月22日)。
まだ分裂する前の民主党(当時)や共産党、社民党、自由党などが、平和安全法制の審議に対して「戦争法」などとネーミングして騒いだことは記憶に新しい。
しかし、平成の政治史を振り返ると、もっとも平和から遠のいていた危うい時期が、民主党政権時代だったことをどう考えるのか。
辺野古移設に合意までしながら、民主党政権下では日米同盟が「漂流」と言われるほど、両国関係が危機に瀕した。
では、中国や韓国と親善が深まったのかといえば、日中関係も「国交正常化以来で最悪」という状況に陥った。
野田政権の下した尖閣諸島の国有化に猛反発した中国では、各地で日系企業の工場やデパートが暴徒に焼き討ちされた。
ある意味、平成の30年間でもっとも日本と諸外国との関係が悪化していたのが、民主党政権時代だったのである。
リベラルの看板を掲げながら、実際には人に冷たく、残酷で、しかも内政も外交も能力のない人々。
新しい令和の時代を、さらに一段と平和な時代にしていくためにも、平成の政治の苦い教訓を忘れてはならない。
「平成30年間の政治」シリーズ:
平成30年間の政治(上)――定着した「連立政権」の時代
「自公連立政権7年目」シリーズ①~④:
自公連立政権7年目①――政権交代前夜の暗雲