郷里にいる母は、今年で81歳になる。僕の妹、つまり、娘が近くにいて面倒を見ているのだが、このあいだ母は、妹の顔を見るなり、「あんた、誰や」といったらしい。彼女が名前を告げると、不思議そうに眺め、「顔が違う」とつぶやいた。認知症の気があるのだ。
しかし病院へ行こうといっても、人を病人扱いするな、と聞かない。幸か不幸か、脚が悪いので、外へ出ることはないから、徘徊の心配はない。家にこもって、ひたすらTVを視る日々を過ごしている。
僕の作家の先輩に村田喜代子さんがいる。出会ってから30年あまりになるだろうか。彼女は芥川賞を受けたばかり、僕は某誌の新人賞をもらったばかり。僕が日本文壇の秘密兵器としての位置を占めつつあるあいだに、村田さんは着実に良作を積み重ね、いまや日本を代表する小説の大家のひとりになっている。
出会ったころ、僕は新人賞をもらうと同時に結婚したので、村田さんは、お祝いにと俎板(まないた)をくれた。確か、「これは奥さんに」といわれた記憶があるので、いいように料理してやって、という彼女流のユーモアだったのか。
女性の年齢を明らかにするのは失礼かもしれないが、村田さんは、特に隠してもいないので、いってもいいだろう。彼女は古稀を過ぎた。普通なら枯れてくるころなのだが、この人は小説家として成長を続けている。すごいことだ。
作品もそうだ。村田さんならではの新しい領域を開拓している。その村田さんが認知症の老人たちの小説を書いたというのだから、読まないわけにいかない。さっそく書店へ車を飛ばし、家に帰って一気に読んだ。
うーん、おもしろい。さらに、小説として新しい工夫がある。ただの認知症の老人を扱った作品ではないのだ。
主人公は97歳の「初音さん」という老婆。施設に入っているのだが、長女の満州美と次女の千里は、頻繁に訪れてよく世話をする。親孝行な娘たちだ。娘といっても、長女はすでに76歳。いわゆる老老介護である。
初音さんは、若いころ、中国の天津にある租界(そかい)で暮らした。認知症の老人は、過去に居場所を持っている。彼女も娘に年齢を訊かれ、二十歳と応えた。ちょうど長女を身籠もっている時分だ。
小説では、現在と初音さんの租界時代が行きつ戻りつして、物語が進んでいく。このあたりの切り替えが絶妙で、まったく不自然さを感じさせない。作者は、自在に時間をコントロールしている。
天津の租界では、女たちが意志を持って、自由に生きた。その時代を初音さんは、生き直している。しかし彼女の体は、だんだん衰えていく。ここで小説のマジックともいうべき、不思議な現象が起きる。
初音さんという、やがて死を迎えようとしている人物が、人間でありながら、かつての租界時代の表徴となっているのだ。歴史は言葉によって残るが、時代はそれを生きた人とともに死ぬ。初音さんの存在は、死につつある時代そのものと感じる。
そうおもって読むと、認知症の老人たちが暮らす施設は、その人々が生きた時代の終焉の場と見えてくる。単なる認知症の老人たちを扱った作品ではない、というのは、そういうことだ。
村田さんは、認知症という主題を活用して、人が生きた時代の死に様をとらえたといえる。認知症の老人を主人公にした小説は少なくないけれど、こんな離れ技をやってのけたのは、彼女しかいない。
誰の小説だったか、主人公が、小説を読んだあとで作者に電話ができればいいのに、といっていた。『エリザベスの友達』を読み終えて、僕にもその気持ちが分かった。いい小説を読んだら、作者に感想を話したくなるのだ。
僕は、さっそく村田さんに感想を書いてファックスした。内容は、ここで詳しくはいわない。ただ、僕もこんな小説が書きたかったとしるした。村田さんの小説を読むと、猛烈に仕事がしたくなる。こういう先輩を持って幸せだとおもう。僕も精進せねば。
参考文献:
『エリザベスの友達』(村田喜代子/新潮社)