極真空手の旧城南支部(廣重毅支部長=当時)といえば、「チャンピオン製造工場」として城西支部と競い合った時代をもつ名門支部として有名。栃木県出身で高校卒業と同時に城南の門を叩き、数見肇選手ら同年代の中で頭角を現し、97年全世界ウェイト制大会でチャンピオンに。現役引退後は極真会館(松井派)支部長として活躍し、2014年12月、沖縄空手や中国拳法の理念を取り入れた新組織「錬空武館」(HP)を設立した。ことしで6年目に入る高久昌義館長(たかく・まさよし 1971-)に聞いた。
フィリオとの一戦がきっかけ
極真空手の城南支部はユニークな取り組みで知られてきた。ルールのもとで試合を行う「競技空手」に特化した練習法のみならず、掌底で顔面ありの組手を行ったり、中国拳法の意拳(いけん=太気拳)を取り入れた稽古法を推奨するなど、武術性を重視する姿勢が見られた。
その城南支部にあって、立禅や這(はい)など本来の極真空手の稽古体系と異なる意拳の稽古には、道場の選手クラスも好む者とそうでない者に分かれたという。高久館長は「そうした練習が好きなほうだった」と語る。
高久の空手人生における決定的な転機が訪れたのは、28歳で迎えた第7回世界大会(99年)。2年前の第1回世界ウェイト制大会で軽重量級の世界チャンピオンとなった同氏は、同じ大会で重量級チャンピオンとなったブラジルのフランシスコ・フィリオ選手と5回戦でぶつかった。
通常、攻撃する際は、意識の変化も含めて技の「起こり」というものが生じやすい。そうした「起こり」を何ら感じないまま、フィリオの上段横蹴りをまともにもらってしまった。
意拳などの中国武術の魅力に取りつかれた高久は、廣重師範(極真拳武會・初代会長)の許可をもらい、中国武術の達人と定評のあった加藤武揚(かとう・たけあき、茨城県)のもとに定期的に通うようになった。加藤は警察官出身の知る人ぞ知る武道の達人で、中国武術、居合、古武術などにも造詣が深かった。空手は沖縄少林寺流の保勇(たもつ・いさむ 1919-2000)の系統に属しており、古流の型を習おうとする段階に入った矢先、その加藤が2008年他界してしまう。フィリオ本人は意識もしていなかったかもしれません。何らの殺気も感じないまま、カウンターのように自分から突っ込んでしまった。全くわからないうちに蹴られていたという感じで、そのことが自分では一番悔しかった。壮絶な打ち合いをして体力差で負けたのなら納得がいったと思います。あの一戦がなければ、いまの自分はありません。その後、空手や中国武術を本格的に探求しようという気持ちも起きなかったでしょうし、武術の奥深さを探究せずにいたかもしれません。
その後、大会などで偶然顔を合わせた今野敏(今野塾主宰者)と知り合う中で、同じ喜屋武朝徳系の少林寺流の空手を修行していることを知り、2013年頃から師事するようになった。以来週1回、今野から「直伝稽古」を受け続ける。少林寺流は、アーナンクー、セーサン、ワンシュウ、パッサイ、五十四歩、チントウ、クーサンクーの7つの型を修練。その前提として、ピンアン(5種)やナイハンチも基本型として繰り返す流派だ。
沖縄空手と中国武術を取り入れる
もともと沖縄空手に目を開くきっかけには、知花朝信の系統である「心道流」との出会いもあった。同じ城南支部出身の数見肇(数見道場館長)、岩崎達也(剛毅會空手宗帥)が師事していた座波心道流の宇城憲治(うしろ・けんじ 1949-、創新館館長)の稽古に、共に参加していた時期がある。そのため錬空武館では、那覇手の鍛錬型であるサンチンは、今も心道流式のやり方で行っているという。
宇城先生から習ったサンチンはすごくいいものなので、うちでは残してあります。(あまり強く息を吐かない心道流のサンチンは)中国武術の内家拳(ないかけん)的なんです。それほど力むこともなく、必要な腹圧、内圧をかけて行うものなので僕にはものすごく合っています。
高久にとって、沖縄空手は一方の極であり、さらにもう一つの極が古流剣術(新陰流)と形意拳(けいいけん)のエッセンスを伝える「刀禅」を主宰する現在の師・小用茂夫(こよう・しげお)である。
錬空武館の一般部の稽古を見学させてもらうと、立ち方はすべてナイハンチ立ちというか、四股(しこ)立ちのような立ち方であり(極真の場合はサンチン立ち)、極真流の体系はほぼ見られなかった。ピンアンの型も、沖縄しょうりん流と同じ、オリジナルにほぼ近い様式と思われた。加藤先生、今野先生、小用先生。この3人の教えを核としていったら、すごいことができそうだとの期待が自分の中で膨らんできました。極真で空手を指導する際もそうした変化が生じ、このままでは極真の看板とはそぐわない内容になると感じたとき、松井館長に相談し、自分の看板でやりたいと申し出て、了承してもらった経緯があります。
高久に中国武術を本格的に教えたのは加藤だが、その加藤に師事する以前、城南支部で意拳を習ったことがベースになっているかを尋ねると、「廣重師範から意拳を習っていなかったら、そういう目線にはならなかったと思います」との返事がかえってきた。
うちは中国武術が半分、沖縄空手が半分という感じですが、中国武術で武術を行う体をつくり、その上で沖縄空手の無駄のない型がぴったりはまるんです。以前行っていた型よりも沖縄空手の古い型は身体への負担が少なく、私としてはとても馴染みやすく、動いていて身体の納得感が得られます。
高久にとって沖縄空手は取り入れる要素の一つであり、欠かすことのできないものとなっている。
道場では極真時代のピンアンを沖縄流のピンアンに切り替えるために、およそ1年間かけて行ったという。古くから在籍する生徒には両方の違いを具体的に説明することで、より理解されやすくなったと振り返る。
「掛け試し稽古会」を主宰
高久館長は独立した翌年の2015年から、ユニークな取り組みを始めた。「掛け試し稽古会」(掛け試し稽古会HP)の開催だ。流派を問わず、技の掛け合いを試みる。昔の沖縄では武術家同士が立ち会って、相手の力量を知り、自分の技を試す機会が暗黙のうちに存在した。現代にそのような機会はない。各流派がそれぞれの枠の中で試合を行ったりしているだけだ。高久の問題意識は、フィリオとの一戦で明確になったように、技の起こりに、いかに早く反応できるか、そのための鍛錬方法が存在しないに等しい状況をなんとかしたいとの思いが強かった。
そのため、技の攻防といっても実際に当てることはしない。当たれば、その時点で勝負は決してしまっているのであり、武術としての戦いは終わっているからだ。また、はなはだ危険でもある。必然的に寸止めに近い攻防にならざるをえないが、禁止技などはなく、顔面攻撃もあり、つかみもOK。互いの攻防をとおし、攻撃をもらったと思った側は「いただきました」と素直に申告するスタイルだ。「掛け試し稽古会」の発想は、高久のまったくのオリジナルという。
当初は違う流派や格闘技が自由に対面したら、闘争心に火がついてケンカになるのが落ちではないかと考える人も多かったという。やってみると、禁じ手はないものの当てる直前で止めるため、何をコノヤローとはならず、逆に感動と感謝が残るという。さらにちょっとした悔しさも。
掛け試し稽古会の特徴は、相手の技を認めることにあります。触れられたらお終い、中に入られたらお終いという意識が共有されていて、まさに紳士淑女の稽古会です。
関東、関西、中部、沖縄などで定期的に「掛け試し稽古会」を開催。武道愛好家との交遊が広がっている。(文中敬称略)
【連載】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
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