日中の未来をつくる作文コンクール――石をも貫く雨垂れのごとく

ライター
大森貴久

5年間で2000点を超えた応募作品

コンクールの表彰式(北京市内)でスピーチする陳文戈氏

コンクールの表彰式(北京市内)でスピーチする陳文戈氏

 2012年秋、日中関係は〝国交正常化以来最悪〟の冷え込みを見せた。関係の改善がまだ見通せていなかったその翌年、1つの作文コンクールが開催に向けて始動する。
 中国外文局に所属する人民中国雑誌社による「Panda杯全日本青年作文コンクール」である。その名の通り、日本の青年たちから中国にまつわるエッセイを募集する同コンクールは2014年にスタートし、昨年(2018年)で第5回を迎えた。

 開催のきっかけとなったのは、人民中国雑誌社の社長・陳文戈(ちん・ぶんか)氏の発案だった。
 中国では、中国人の大学生が日本に関する知識をクイズ形式で競い合う「笹川杯全国大学日本知識大会」が毎年行われている。2013年に社長に就任した陳氏はこの大会の存在を知り、そこから着想を得たのだ。
 知識大会は2004年に始まり、2013年時点で10年目を迎えていた。ならば、日本の青年たちに中国への理解と認識を深めてもらうための作文コンクールを開催してみてはどうか――。
 陳氏は、知識大会を主催する日本科学協会駐日中国大使館に協力を仰いだ。

 青年が互いの国についてより一層理解していくことが、互いの友誼を深める。それが中日関係の未来にとって重要だと考えたのです。(陳文戈氏)

 交渉の末、開催が決定したのは2014年5月末。公募開始はその年の8月となった。準備期間は約2ヵ月。担当者たちはとにかく急がなければならなかった。
 とはいえ、あらゆることを手探りで模索しながらの作業である。応募数が一向に増えないまま、締切日は近づくばかりだった。

 当時、人民中国雑誌社と日本科学協会の各担当者は、まさに走りながら考えるといった感じでした。(日本科学協会・宮内孝子氏)

 この言葉のとおり、東京都内の大学や中国語スクールをくまなく訪問してチラシを配布。ある担当者は、自身の子弟や知人にも応募を呼びかけたという。

 約2ヵ月の奔走――。彼らの懸命な取り組みは実を結び、第1回の応募数は最終的に224点を数えた。
 以後、「Panda杯全日本青年作文コンクール」の認知度は徐々に高まり、それに比例する形で着実に応募数も増えている。第5回となった昨年の応募数は624点。初回の3倍弱の数となった。

 中日関係の低迷期にスタートしたコンクールです。当初は不安もありましたが、日本の青年たちの情熱は強く、この5年間で2000点を超える作品を応募していただきました。(陳文戈氏)

中国人学生たちの熱意

笹川杯全国大学日本知識大会を観戦する訪中団

笹川杯全国大学日本知識大会を観戦する訪中団

 このコンクールには2つの特徴がある。
 1つは、日本語で投稿できるということだ。日本で開催されている同種のコンクールの場合、相手国の言語を用いての作文が一般的である。
 本コンクールが日本語での公募とした理由は、すでに中国への関心を抱いている中国語学習者だけでなく、中国に興味がなかったり、あるいはネガティブな印象を持っていたりする人にも、広く門戸を開きたかったためだという。
 そしてもう1つの特徴は、優秀賞・入賞に選ばれた人たちに、副賞として中国への1週間の研修旅行がプレゼントされること。
 近年、中国人の訪日が増加の一途をたどる一方、日本人の訪中は減少傾向にある。だからこそ、実際に足を運ぶことで、中国への理解や親近感を深めてもらいたいと考えた。
 現に本コンクールでは、この5年のあいだに100名近くの青年たちが訪中している。

 投稿作品に目を通していると、1つの共通点が浮かび上がってきます。多くの日本の青年はインターネットなどの影響から、はじめのうちは中国に対してネガティブな印象を抱いている。ところが、自ら中国に関心を持ったり、じかに中国人と触れ合ったりするなかで、当初の認識に変化が生じていくのです。(陳文戈氏)

 2018年の訪中団が東京・羽田空港の国際線出発ロビーに集合したのは11月16日の朝。高校生から社会人まで、参加者は23名の青年たちだ。
 研修旅行の行程は、北京に3泊、四川省成都市に3泊の計6泊7日。初めて中国を訪れる人もいれば、過去に中国で生活をしたことがある人もいるなど、これまでの中国との関わりはそれぞれに異なる。
 長崎県立大学(佐世保市)に通う森井宏典さんは、今回で3度目の訪中となった。1度目は長崎県の日中交流事業で、2度目は短期語学研修での訪問だった。
 そもそも森井さんが作文コンクールに応募した理由は2つある。

 1つは、僕の大学では留学生の半数以上が中国人であり、日常的に彼ら・彼女らと触れ合うなかで、僕自身の考え方が大きく変わったからです。
 そしてもう1つは、僕は大学進学とともに長崎に移住し、古くから続く中国と長崎の交流について学んだので、その友好の歴史を多くの人に知ってもらいたいと思ったからです。

 東京から約4時間。北京首都国際空港に降り立った一行は、さっそく北京市内へと案内された。
 北京では、作文コンクール開催のきっかけとなった「笹川杯全国大学日本知識大会」の観戦、天安門広場や世界遺産の頤和園(いわえん)などの観光、人民中国雑誌社の見学といったスケジュール。
 とりわけ、中国全土の109大学・327名が競い合った知識大会は、日本の青年たちに強烈なインパクトを与えた。
 創価大学(東京・八王子市)で学ぶ玉川直美さんは、次のように感想を語ってくれた。

 出題されるクイズの難易度の高さに驚きました。政治、歴史はもちろん、最近のポップカルチャーにいたるまで、日本人の私たちにとっても難しい問題ばかりだったように思います。
 会場では、多くの中国人学生が話しかけてきてくれました。そのうちの1人の女子学生から、知識大会のために使ったという分厚いテキストをもらったのですが、書き込みやアンダーラインの量からは、彼女の熱意が手に取るように伝わってきました。

やがては燎原の火のように

成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地を見学する訪中団

成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地を見学する訪中団

 訪中4日目には、北京から南西に約1800kmの四川省成都市へ移動。
 成都双流国際空港から市街地までは車で30分ほど。市の中心部には高層建造物が立ち並び、大通りにはヨーロッパの高級ブランドの路面店が建ち並んでいる。
 成都市では、諸葛亮や劉備玄徳などが祀られた「武侯祠」をはじめ、かつて詩聖・杜甫が暮らした場所に再現された「杜甫草堂」、成都最大の道観(道教寺院)である「青羊宮」、世界中からの観光客で溢れかえる「成都ジャイアントパンダ繁殖研究基地」などを見学した。

 成都は予想していたよりも都会で、まずはその発展ぶりに驚きました。ただ、スピード感のある発展のなかでも、武候祠や杜甫草堂に象徴されるように、歴史や文化を大切にしている様子を実感することができました。(玉川直美さん)

 街中を歩いていて感じたのは、お年寄りの方々が元気だったということです。公園では歌を歌ったり、太極拳やダンスをしたり。また、屋外のいたるところで象棋(シャンチー)やカードゲームをするなど、本当に楽しそうに過ごしていました。これは、今の日本ではなかなか見られる光景ではないように思います。(森井宏典さん)

 人民中国雑誌社の陳氏が述べていたとおり、日本の青年たちはイメージしていた中国と実際の中国とのギャップを肌で感じたのだろう。森井さんや玉川さんが語ってくれたように、23名それぞれに新たな発見があったはずだ。

「雨垂れ石を穿(うが)つ」という成語があります。1滴ずつの雨垂れも、長い時間をかければ、やがては石をも貫くという意味です。作文コンクールの継続とそのための努力は、まさにこの〝石をも貫く雨垂れ〟なのだと考えています。(陳文戈氏)

 今から35年前の1984年10月、3000人の日本の若者が中国の国慶節のイベントに招かれた。これは1972年の国交正常化後初の大規模な交流事業であり、天安門広場では両国の青年たちによる大交歓会が行われた。
 実は、当時北京大学の学生だった陳氏は、この歴史的なイベントに参加したひとりなのだ。

 あの時、私は初めて日本人と実際に触れ合いました。みんなとても優しく、礼儀正しく、友好的だったのを覚えています。(陳文戈氏)

 そんな陳氏は、両国の青年たちにかつての自分自身の姿を重ね合わせて、次のように語る。

 青年こそが中日友好の未来です。私たちのわずかながらも切実な努力が、1粒の灯火となって、中日の青年のあいだに友誼の炎として燃え上がり、やがては燎原の火のように力強く広がっていくことを心から願っています。

(画像提供:人民中国雑誌社)

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おおもり・たかひさ●1988年、大阪府生まれ。創価大学卒業後、書籍の企画・編集業に従事する傍ら、ライターとして雑誌・機関誌などの紙媒体で、主にインタビュー記事の執筆を行う。東京都在住。