「安倍劇場」のはじまり
自民党内には、高まっているナショナリズムを吸収することで選挙に勝ち、民主党から政権奪取を図ろうとする思惑があった。その一方で、石原慎太郎氏に象徴されるような〝極右勢力〟が橋下徹氏の人気に便乗して勢いを急速に増していることへの、強い警戒感があったのだと思う。
総裁選のわずかな期間中に、自民党内では下馬評の低かった安倍氏に有力派閥の支持が移動し、最終的により右寄りな石破氏ではなく、公明党との連立政権を一度経験している安倍氏を総裁に選んだ。
あるいは、この時期、日本と中国の双方にナショナリズムが高まり、東アジアで不測の事態が起きることをもっとも懸念していたのは米国政府だっただろう。
かくして政権に復帰し、再び首相となった安倍晋三氏は、きわめて巧妙な戦術をとったように見える。
公明党と政策協定を交わして連立を組むと安倍氏は早速、「アベノミクスによる3本の矢」を発表。さらに従来のタカ派的イメージを弱めるどころか、逆に強調するような言動をはじめる。
意識してテレビカメラの前で饒舌に喋り、記者たちは「次は何を言うのか」と首相に注視した。テレビを筆頭とするマスメディアは連日「安倍劇場」となった。
ともかく安倍首相の言動が1日も欠かさずテレビ報道の主役となり、世間の関心事になる。そのことは相対的に、これまでテレビ政治の権化だった橋下徹氏を報道の〝尺〟から遠ざけていった。
親密さをアピール
バラエティー番組で人気を得たタレント弁護士から政治家に転身した橋下氏は、どの場面でどのような言動を見せれば、テレビが大きく報じるかを熟知していた。そのセンセーショナルな「劇場型」の言動によるメディア露出こそ橋下氏の求心力であり、当時の大阪維新の会や日本維新の会が勢力を伸ばせたエネルギー源だったのである。
安倍首相はあきらかに意図して、橋下氏や石原氏よりも強力なキャラクターとして国民の前で振る舞ってみせた。
あきらかに意図してと書いたのは、後述するように同時期に中国には関係修復のシグナルを送っているからである。
しかも、安倍首相は日本維新の会でも大阪維新系の、橋下氏や大阪府の松井知事らとの〝蜜月〟を世論にアピールした。政権発足2週間の2013年1月11日には、わざわざ大阪のホテルに出向いて両氏と会談。この折も前日に、あえて菅官房長官が会談の予定を記者たちに公表し、世間の耳目を集めさせるように仕向けた。
もちろん、双方の腹の探り合いや、憲法改正に向けての意見交換などが会談の目的だっただろうし、あるいは公明党を牽制して政権内での自身の優位さを確保したいという思惑が、実際に首相周辺にもあったのかもしれない。
そう匂わせることも含めて、すべてが「安倍劇場」となり、メディアはますます首相の一挙手一投足を追った。
こうして首相は一貫して橋下氏らとは親密であるという印象を有権者に発信し、彼らのお株を奪う「安倍劇場」を演出したのである。
崩壊した極右政党
その結果、早々に日本維新の会の支持層は安倍首相の支持層へと移り、維新内部では崩壊がはじまる。6月の東京都議会議員選挙では34人の候補を立てたものの、改選前の3議席を下回る2議席という大惨敗。7月の参議院選挙でも44人の公認候補を立てながら8議席にとどまり、非改選の1議席を加えても法案提出権(10議席)さえ確保できなかった。
党勢は凋落の一途をたどり、2014年5月には橋下派と石原派での「分党」が決定。8月、平沼氏を党首、石原氏を最高顧問とする次世代の党と、橋下氏を代表とする日本維新の会が、それぞれ設立される。
同年12月の第47回衆議院選挙で、次世代の党は19議席から2議席へと大敗。石原慎太郎氏も落選して政界を引退した。
橋下氏が掲げていた大阪都構想は翌2015年5月の住民投票で否決され、橋下氏もこの年の12月に政界から引退している。
飛ぶ鳥も落とす勢いであった橋下氏と、彼の人気に群がっていた極右政治勢力が、わずかな期間に凋落した最大の理由は、安倍首相が彼ら以上にキャラクターを立てたことで、支持層の多くが自民党に吸収されたことにある。
習氏に宛てた親書
現在の政権支持層(自民党支持層)のなかにナショナリストや排外主義者がいることを危険視し、糾弾する声があることは理解している。首相もそういう人々と気が合うのか、何割かは計算なのか、親密ぶりを隠そうともしない。
だから安倍政権は危険なのだと言う人々の感覚は、分からないわけではない。
ただ、2012年の秋から冬、ナショナリズムを煽るポピュリズムが急速に政治的な勢力を拡大していたこと。それが日中間の火薬に火をつけかねない極めて危うい状況にあったことを考えると、安倍政権はそうした空気を巧みに政権の支持層として取り込み、結果的にある種のコントロール下に落ち着かせることに成功したのではないのか。
安倍首相自身、2006年に出した著書『美しい国へ』にあきらかなように、多分にナショナリスト的性格の強い政治家であることは衆目の一致するところだろう。
しかし、安倍氏個人がそのような政治信条を持った政治家であるということと、第2次安倍内閣誕生後、今日まで彼が政治的意図のもとに振る舞ってきた側面とを混同してはならないと思う。
2012年12月26日に自公連立による第2次安倍内閣が発足するなり、前述のように安倍首相は世論のナショナリズムを自身に引き寄せる振る舞いを見せた。連立のパートナーである公明党の山口代表は、なぜか不思議なほど静観を決め込んでいた。
しかしこの時、安倍首相は「すぐさま中国との関係改善に動くべき」という山口代表の進言を受け入れ、山口氏に習近平総書記(当時)宛ての親書を託していたのである。
(③に続く)
「自公連立政権7年目」シリーズ:
自公連立政権7年目①――政権交代前夜の暗雲
自公連立政権7年目②――首相の巧妙な戦術
自公連立政権7年目③――大きく好転した日中関係
自公連立政権7年目④――平和安全法制の舞台裏
関連記事:
先鋭化していく立憲民主党――通常国会後は支持率も下落
第196通常国会を振り返って――〝嫌がらせ〟に終始しただけの野党
会期延長、不誠実なのは誰か?――かつて会期の撤廃すら主張していた人々
〝万年野党〟化する立憲民主党――野党第一党の責任はあるのか