未来のつくり手たちのために――書評『デジタルネイチャー』(落合陽一著)

美術史研究者
高橋伸城

疾走する「明るさ」

 批評家の小林秀雄は、あるフランス人の言葉に拠りながら、

モオツァルトのかなしさは疾走する

と書き記したことがある。
『デジタルネイチャー』で疾走しているのは、「明るさ」である。
 テクノロジーへの絶対的な信頼に基づく、驚くべき楽観性。
 追いつこうと思っても追いつけないその速度は、実際に著者のつづる文章を読んでみないとわからないのではないかと思う。
 
 一つだけ例をあげたい。
 何千年と生き続けるインターネットの前では、ごくわずかでしかない人間の寿命。それをたとえるのに、実験用のハツカネズミが引き合いに出される。
 その違和感に戸惑っている間に、著者のキーボード入力はどんどん先へ進む。
 遠くなってゆく打鍵の音を聞きながら、ようやくたどり着く文章が、例えば次のようなものである。

 コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決、それは全体主義的ではあるが、誰も不幸にすることはない。
 全体最適化による全体主義は、全人類の幸福を追求しうる。
 現在の世界の枠組みを超越するための「新しい〈自然〉」の発明、これはその始まりに共有されるべき新しいビジョンなのだ。(『デジタルネイチャー』P221)

 つまり、コンピュータが生態系のうちに溶け込み全地球を包み込むことで、あらゆる人にとって最善の解決方法が導き出されるようになるというのだ。
 著者はそれを「全体最適化による全体主義」というフレーズで表現した。

 私たちはこれをどう読んだらいいのだろうか。
 目くじらを立てて反対するのか。
 それとも手放しで称賛するのか。
 そのいずれにも安易に与することなく、そこにいらだちを覚えながらも、著者自身がそうしてきたように「手を動かす」こと。
 自分にできる何かを今このときに始めること。
『デジタルネイチャー』には読む者を創造性の現場へと駆り立てる力がある。

「いらだち」という目覚め

 そう考える時、唐突なようだが、本書のキーワードは「いらだち」ではないかと思う。
 読む者を「いらだち」へと誘う仕かけが、随所にほどこされている。
 これは皮肉ではない。事実、その「いらだち」と出会うだけでも、この本を手に取る価値はあるだろう。
 
 そこで扱われている題材は、今を生きるほとんど全ての人にとって関わりのあるものだ。
「社会」や「自由」や「幸福」といった、これまで当たり前のように共有されてきた概念の地盤そのものが今、揺らごうとしている。
 見て見ぬふりをして持ち越されてきた問題に真正面から挑んだという意味で、本書の重要性は強調してもし過ぎることはない。

 身近にありながら、それに気づかなかったり、気づいていても、自分には関係がないと知らぬふりをする。
 そういう無関心や無自覚な態度を揺り動かす「いらだち」は、一種の目覚めでもある。
 人々の耳元でアラームを鳴らしながらあっという間に駆け抜けるその「明るさ」は、ではどこへ向かおうとしているのか。

「デジタルネイチャー」とは

 著者である落合陽一氏はここ数年、テレビなどのマスメディアにもよく登場している。
 丈の長い黒い外套の裾が風にひるがえる、その風さえも自在に操るかのような、そんな妖しげな出で立ちを目にしたことのある人も多いであろう。
 1987年生まれというから、まだ30代に入ったばかり。その若さで筑波大学の学長補佐、准教授を務めるだけではなく、自ら設立したPixie Dust Technologies, Inc.という会社のCEOでもある。
 さらにはメディアアーティストとしても積極的に作品を発表しており、2016年には世界的に有名なアルス・エレクトロニカで栄誉賞(Honorary Mention)に輝いた。

 そんな落合氏の幅広い研究や制作活動の看板として掲げられている言葉、それが本書の題名にもなっている「デジタルネイチャー」である。
 漢字では「計算機自然」とも記されるこの世界では、コンピュータがあらゆる物事の襞の内側まで浸透し、原生のものと、人工のものとの見境がつかなくなる。
 スマートフォン、医療機器、4Dの映画。
 ほんの少し周りを見渡すだけでも、それが現在進行形で起こりつつあることは、誰の目にも明らかであろう。

 本書はそのような事実の分析にとどまらず、自分自身をどうとらえるかという認識そのものの変革を促す。
 落合氏がそこで述べるのは、そもそもは生命も計算機であったということである。
 一見、奇抜に聞こえるこの命題も、網膜や蝸牛といった情報のデジタル化を担う器官が人間に備わっていることを知って、なるほどと納得する。

 テクノロジーは刻一刻と変化してゆく。これまでにない規模で普及してゆく。
 その横を素通りすることも、またそれをただ悲観してすますこともできないような時代が近づいている。
 本書が表向きとして示すのは、あるべき未来の姿である。
 しかしそこに響く余韻を聞き逃してはならない。
 その未来をつくるのは、他でもない私たち一人ひとりなのである。

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たかはし・のぶしろ●1982年、東京生まれ。エジンバラ大学とロンドン大学で美術史と宗教学の修士を取得。立命館大学博士課程、単位取得満期退学。江戸時代に書や工芸に携わった本阿弥光悦を中心に研究を続ける。