沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第18回 しょうりん流②――知花朝信の開いた小林流(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

糸洲安恒の空手を引き継ぐ

 「拳聖」と謳われた松村宗棍(まつむら・そうこん 1809-1899)や糸洲安恒(いとす・あんこう 1831-1915)の流れに位置する知花朝信(ちばな・ちょうしん 1885-1969)が、1933年に命名して開いたのが小林(しょうりん)流である。この流派は、首里手の本流といってよい。
 知花は剛柔流の宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)や本土で糸東(しとう)流を開いた摩文仁賢和(まぶに・けんわ 1889-1952)と同世代にあたり、東京で空手普及にあたった船越義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)より二周りほど下の世代となる。
 摩文仁は大阪に出て空手普及にあたるが、最初は知花朝信に大阪赴任の要請があったものの、仕事の都合で叶わなかったとの逸話が残されている。

小林流を開いた知花朝信

小林流を開いた知花朝信

 知花の師匠は、沖縄空手を学校普及に開いた糸洲安恒で、15から29歳まで糸洲の直接指導を受けた。糸洲は首里手の妙手と見られることが多いが、実際は首里手4割、那覇手6割の武人であり、その結果、首里手も100%の首里手というわけではない。もともと「空手に流派はなかった」との糸洲の言葉には、そうした意味合いも含まれていると思われる。
 知花は1918年、33歳から道場を開いて指導を始めた。小林流の特徴は、巻き藁での鍛錬を重視し、さらにアテファ(強い突きの威力)を重んじる。知花自身が戦後まもない1948年に結成し初代会長を務めた「沖縄小林流空手道協会」の、現4代目会長を務める宮城驍(みやぎ・たけし 1935-)は小林流空手の特徴についてこう語る。

 知花先生の教えは、手足を伸ばしてのびのびとやりなさいというもので、自然の動きを強調されていました。美しい形にこそ力がこもるとの意味もありまして、さらに瞬発力を重視するのも小林流の特徴と思います。

 その後、知花は1956年に結成された戦後の沖縄空手界の最初の団体である「沖縄空手道連盟」の初代会長に就任し3年の任期を務めたほか、69年に亡くなるまで「沖縄小林流空手道協会」の会長として小林流の総帥的立場にいた。
 知花の50年にもおよぶ空手指導の中で残した弟子は数えきれないが、現在の主な流派組織につながる直弟子をあげると、比嘉佑直(ひが・ゆうちょく 1910-1994)、宮平勝哉(みやひら・かつや 1918-2010)、仲里周五郎(なかざと・しゅうごろう 1920-2016)、上間上輝(うえま・じょうき 1920-2011)などがいる。現在の「究道館」「志道館」「小林舘」「守武館」にそれぞれつながる。

長寿者ひしめく流派

 首里手全般にいえることだが、小林流には長寿の空手家が多いのも顕著な特徴の一つだ。指導的立場の武人の享年を列記すると、松村宗棍90歳、糸洲安恒83歳、知花朝信83歳、比嘉佑直83歳、宮平勝哉92歳、仲里周五郎96歳、上間上輝91歳と、不思議なほどに相当な長寿者で占められる。
 その理由として、小林流の稽古では自然な呼吸法を特徴とし、無理に力むことがないためと考えている人も多いようだ。

知花朝信、宮平勝哉、石川精徳と歴代会長の続いた「沖縄小林流空手道協会」で4代目会長を務める宮城驍さん

知花朝信、宮平勝哉、石川精徳と歴代会長の続いた「沖縄小林流空手道協会」で4代目会長を務める宮城驍さん

 小林流の開祖の知花朝信と本土で松濤館を開いた船越義珍の師匠は、沖縄空手において同系列として重なるが、現在に残るそれぞれの内容は「全然違います」と語るのは小林流協会の宮城驍会長(前述)だ。
 船越は東京に出て各大学を拠点に指導を行ったため、大学4年間で教え込むという時間的な制約を課せられることになった。本来、沖縄空手はゆうに20年や30年かけて教え込む内容だ。勢い、促成栽培のように教える必要が生じたこと、さらに血気にはやる若者たちは沖縄空手伝統の「型の反復」といた稽古法に耐え切れず、安易な組手や競技重視に走ることになった。そのため、松濤館では沖縄伝統の型が崩れ、変質していった側面があるとされる。
 よく言われることだが、本土に輸出された首里手の型の名称が、ピンアンからヘイアンに、ナイハンチが「鉄騎」、チントウが「岩鶴」、クーサンクーが「観空」というように日本式に改名されたほか、ピンアン初段と2段の内容が故意に入れ替えられるなど、沖縄本来の空手とは違う様式へと変化した。一時期船越義珍の弟子となった大山倍達(おおやま・ますたつ 1923-94)が起こした極真空手でも、松濤館流の型を踏襲しており、沖縄本来のオリジナル型とはかなり異なるものとなっている。

多くの弟子を残した比嘉佑直

 戦後の沖縄空手界の4天王といわれたうちの一角が、比嘉佑直の小林流の系統だ。比嘉は、もともと高校時代は野球の選手だったが、空手鍛錬も同時に行っており、当初は剛柔流に励んでいた。戦後、知花に弟子入りした経緯がある。現在、「究道館」の2代目館長を務めるのは、おいの比嘉稔館長(ひが・みのる 1941-)で、長男佑直の弟(3男)の子に当たる。
 もともと柔道に打ち込み、4段の腕前をもつ稔は、18歳からおじの道場への入門を許可され、空手を始めた。

 ふだんは優しかったが、稽古には非常に厳しかった。巻き藁突きがわれわれの真似のできないくらいに強かった。

と回想する。

2018年に山川公民館に設置された知花朝信を顕彰する記念碑(那覇市)

2018年に山川公民館に設置された知花朝信を顕彰する記念碑(那覇市)

 佑直も多くの弟子を残したことで知られ、「道場の外で技を試してこい」としばしば口にし、無頼なタイプの弟子も多く集まったようだ。稔によると、「一番大切なのはティージクン(拳の破壊力)」が口癖だった。
 比嘉佑直は那覇市議会議員として8期26年を務め、議長の要職にも5年間就いた。戦後になって那覇市の大綱挽(おおつなひき)を復活させたのも佑直の功績で、稔もその流れを継ぐ。
 ちなみに、沖縄の空手4団体を統合して「沖縄伝統空手道振興会」(2008年)を結成する強力な後支えをしたのは、佑直の弟子の一人で、経済界で活躍していた金秀グループ創業者の呉屋秀信(ごや・ひでのぶ 1928-2017)だった。呉屋の尽力で、県知事をトップに据えた。沖縄空手の統一組織ができたことを評価する人は多い。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。