最近、このコラムで越川芳明のチカーノ詩についての著作を取り上げた。とてもおもしろかったので、同じ著者のボーダー文学(芸術)についての著作を取り寄せた。『トウガラシのちいさな旅 ボーダー文化論』。こちらも、実におもしろい。
著者は、北米とメキシコの国境を旅して画家のフリーダ・カーロを論じ、革命家チェ・ゲバラに思いを馳せ、タンジールに飛んでポール・ボウルズにインタビューを試み、沖縄でシマ言葉を小説の文体に活かそうとする作家と語り合う。ちいさな旅どころではない。
取り上げられるジャンルも、文学や絵画ばかりでなく、音楽や映画に及ぶ。僕はこのエッセーで初めて混血の歌手リラ・ダウンズやラッパーのクンビア・キングズを知った。甘いJポップのあふれた日本にいる身としては、多分に政治的なメッセージを含んだ彼らの歌は、辛口で新鮮だ。
映画の紹介では、キューバ出身の映画監督レオン・イチャソの『ピニェロ』が印象に残った。ミゲール・ピニェロは、1947年にプエルト・リコで生まれ、7歳でアメリカに移住し、ニューヨークの貧民街で暮らした。
子供のころからやんちゃで警察の世話になっていたが、20代半ばにして強盗罪で刑務所に入る。ここで文学に開眼して、出所後に発表した戯曲『ショート・アイズ』がマンハッタンで上演され、ニューヨーク批評家協会賞を受賞するなど、高い評価を受けた。
詩人として活躍する一方で、TVの世界にも俳優として進出したが、42歳で亡くなる。息を引き取るまで、ジャンキーであり、ストリート・ギャングでもあったというから、ある意味、筋金入りである。
イチャソ監督の『ピニェロ』は、そんな人物の生涯を描いているのだが、主人公を安易にカリスマ扱いしない。そして、ニューヨーカーでも、プエルトリカンでもない、「半端者のニューヨリカン」である現実を見つめた詩人として、冷静に伝えているという。
一度だけでいい、死ぬ前に
登ってみたい
貧民街の空に
泣きたくなるまで
胸一杯の夢を 吐き出すために
最後には オレの遺灰を撒いてくれ
このロウアー・イースト・サイドに
(ミゲール・ピニェロ「ロウアー・イースト・サイドの詩」)
ピニェロの居場所は、最後までニューヨークのストリートだった。この映画は、ぜひ、観てみたい。
文学では、キャリル・フィリップスがアンテナに引っかかった。1958年にカリブ海の小国セント・キッツで生まれ、生後間もなくイギリスに移住する。オックスフォード大学で英文学を学び、作家としてデビューした。
彼の文学の特徴を、越川は、こう語る。
一般にポストコロニアルと形容される作家の特徴は、西洋と非西洋のふたつの文化をその身に体現していることに尽きるだろうが、そのために、どちらの文化の側からも「どっちつかず」の存在として白い眼で見られがちだ。しかし、「どっちつかず」の存在であるがゆえに、ふたつの文化の軋轢や摩擦を自らの問題とすることができる。社会的にはネガティヴに見られがちなそうした立場が、逆に強力な創作の武器になりうることをポストコロニアルの作家たちの作品はしめしているが、とりわけフィリップスの場合、カリブの黒人文化と英国の白人文化という人種の境界だけでなく、英国北部の都市リーズの労働者コミュニティとかれ自身の知性を育んだ貴族的なアカデミー(オックスフォード大学)という、階級の境界すらも行き来した体験が、かれの中に何重にも先鋭化した越境の思想を育んだにちがいない。
このあと、来日したフィリップスへのインタビューが収められているが、創作のステージをアフリカとカリブ海とイギリスの交差点となる「大西洋」に求めたい、という言葉は、アジアの物語作家を標榜する僕としては、大いに興味を惹かれた。
フィリップスは、6作の小説と3作のノンフィクションを刊行しているという。僕の読書欲が刺激されたことは、いうまでもない。
お勧めの本:
『トウガラシのちいさな旅 ボーダー文化論』(越川芳明著/白水社)
『現代詩手帖 特集・ボーダー文学最前線』(2005年5月号/思潮社)