那覇手の本流
1930年(昭和5年)、日本の空手界で最初にできた流派が剛柔流である。
剛柔流の誕生は、流祖の宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん 1888-1953)の一番弟子であった新里仁安(しんざと・じんあん 1901-45)が他武道にまじって東京で空手演武を披露した際、流派名を聞かれて困ったことに端を発する。新里が沖縄に戻って師匠の宮城に報告すると、宮城は『武備誌』にある拳法八句の一節「法は剛柔を呑吐する」から選び取り、「剛柔流」と称したことが始まりだ。
以来、沖縄や日本本土でも、空手の世界で他の武術と同じように流派名が名乗られるようになった。それまでの空手界には首里手や那覇手といった区別はあっても、明確な流派というものは存在しなかった。
現在、沖縄空手の3大流派にも、本土の4大流派にも数えられる流派は「剛柔流」だけである。
東恩納が14歳のころ、山原船(やんばるせん 貨物船)の船主をしていた父親が喧嘩に巻き込まれて命を落としたため、その復讐を誓っての武術修行だったとされるが、実際に武術習得が進むにつれ、復讐心は少しずつ消えていったという。
東恩納が師事した中国人は名前をルールーコーといい、基本型となるサンチン(三戦)をはじめ、サイファ(砕破)、セーユンチン(制引戦)、シソーチン(四向戦)、サンセール(三十六手)、セーパイ(十八手)、クルルンファ(久留頓破)、セーサン(十三手)、スーパーリンペイ(壱百零八手)などの型を持ち帰ったと伝えられる。
宮城はその東恩納に10代半ばから13年間師事し、最後の数年は付ききりで技を習得した。弟子である宮城は多くの後継者を育てたことで知られる。ちなみにゲキサイ(撃砕)とテンショウ(転掌)の型は、宮城が自身で創作したものである。
現在の剛柔流の系統は、大まかに3つに分かれる。主なものは、比嘉世幸(ひが・せこう 1898-1966)、八木明徳(やぎ・めいとく 1912-2003)、宮里栄一(みやざと・えいいち 1922-99)の3系統で、ほかに比嘉の弟子筋にあたる渡口政吉(とぐち・せいきち 1917-98)や戦後長順の内弟子的存在であった宮城安一(みやぎ・あんいち 1931-2009)などの系統がある。
どの流派にもいえることだが、宮城長順ひとりを例にとっても、時代によって空手修行が進化して深まると、同じ人物の教えであっても型の動作が変わったりする。そのため、戦前の弟子と戦後の弟子とでは、受け継ぐ型が微妙に異なる。
もともと門中において、宮城長順の後継者は新里仁安に内定していたというが、宮城の最も信頼していた一番弟子の新里が、「鉄の暴風」とも形容された沖縄戦で戦死してしまった。
宮城自身、戦後まもない1953年(昭和28年)、65歳の若さで急逝する。そのため沖縄剛柔流は多くの系統に分かれたままとなったが、もしも新里が生きていれば、型の統一の動きも進んだのではないかとの声も残っている。
「人に打たれず人打たず」
宮城長順はあくまで沖縄に活動拠点を置き、本土に腰を据えることはなかった。それでも演武披露などで何度も本土との間を往来し、立命館大学などの空手部創部を後支えするなどした。また大日本武徳会(本部・京都)という戦前の武道を束ねていた一大勢力の中に空手を組み入れるために尽力し、武道における空手の地位確立に多大な貢献をなした。
また、戦前からハワイに空手指導に赴くなど、海外普及にも先駆的に取り組んだ。
宮城の座右の銘は「人に打たれず人打たず、事なきを基とするなり」というもので、争いごとはできるだけ避けるべきという考え方で一貫していた。人情味にあつく、おしゃべり好きで、稽古が終わったあとも何時間も、あるときは朝方まで弟子らと語り合うこともしばしばだったという。
宮城の2回り年長に富名腰義珍(ふなこし・ぎちん 1868-1957)、同世代に摩文仁賢和(まぶに・けんわ 1889-1952)がいて、富名腰は東京で空手普及に励み、摩文仁は大阪で拡大に尽力した。それぞれ松濤館、糸東流という本土の4大流派の一角を形成したが、宮城が沖縄にいたまま、本土にも剛柔流を残したのは、やはりその空手普及の尽力のたまものと思われる。(文中敬称略)
【連載】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
[第1回] [第2回] [第3回] [第4回] [第5回] [第6回] [第7回] [第8回] [第9回] [第10回] [第11回] [第12回] [第13回] [第14回] [第15回]
[シリーズ一覧]を表示する