自分でもどういう具合かよく分からないのだが、読んでいないのに気になる本がある。表題に惹かれているのはもちろんなのだけれど、それだけではない。何か、自分にとって大切なことが書かれているようにおもえるのだ。
匂いといってもいいのかも知れない。頭の片隅にあって、ときどきふと思い出して、そうだ、読まなければ、とおもう。あるときは数カ月、ときには何年も、そういう状態の続くことがある。
だったら、早く読めばいいのだが、貧乏暇なしで、ほかに読まなければいけない本もあり、書かなければいけない原稿もあり、会わなければいけない人もいて、なかなか手に取ることができない。
この『本の楽園』というコラムは、新刊、旧刊を問わず、僕の読みたい本を取り上げていいことになっているので、思い切って手にしてみた。鶴見俊輔の『限界芸術論』である。いやー、面白かった。僕の嗅覚は正しかった。
鶴見俊輔は、『思想の科学』という雑誌をやっている哲学者として、名前は知っていた。エッセーなどは読んだことがある。しかしまとまった著作は読んだことがなかった。近年になって『限界芸術論』という著作があることを知って、読みたい本のリストに入った。
いまごろ? といわれるかも知れない。でも、ある作家、思想家、その著作には、ちょうどいい出会いの時期というのがある。あまり若いときに出会っても、素通りしてしまう可能性がある。逆に、出会う時期がぴたっと合えば、きちんと読むことができる。僕にとって、『限界芸術論』は、そういう本だった。
『限界芸術論』において、鶴見は、芸術を3種類に分ける。純粋芸術(Pure Art)、大衆芸術(Popular Art)、限界芸術(Marginal Art)だ。
純粋芸術は、詩や交響楽、絵画など、
専門的芸術家によってつくられ、それぞれの専門種目の作品の系列にたいして親しみを持つ専門的享受者をもつ。
大衆芸術は、大衆小説や流行歌、ポスターなど、
専門的芸術家によってつくられはするが、制作過程はむしろ企業家と専門的芸術家の合作の形をとり、その享受者としては大衆をもつ。
限界芸術は、手紙や鼻歌、らくがきなど、
非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される。
鶴見によれば、まず、限界芸術があって、そこから純粋芸術と大衆芸術が生じる。純粋芸術も大衆芸術も、基礎にあるのは限界芸術であって、この土台から養分を汲み上げないことには発展はない。
そして、限界芸術へ学問の立場から接近したものに柳田国男の民俗学、批評の観点から働きかけたものに柳宗悦の思想、創作に取り組んだものとして宮沢賢治を挙げる。僕が刺激を受けたのは、宮沢賢治をあつかったくだりだ。
賢治は「農民芸術論」で、
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於いて各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ずから湧き起り止むなきときは行為は自ずと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだろう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異なる幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる
と述べる。彼は、教壇に立った学校で児童による演劇を行い、それを戯曲として残しているし、才筆によって修学旅行の記録を作品化する。彼の文学は、どこまでも生活と密着していた。
また、鶴見はいう。
宮沢賢治においては、芸術とは、それぞれの個人が自分の本来の要求にそうて、状況を変革してゆく行為としてとらえられている。
つまり、その作品に生活を変える力を与えようとした。
誰もが芸術家になる。そして、その作品が世界を変えていく。これは芸術の理想形のひとつだろう。
現実に働きかける芸術といえば、社会主義リアリズムがあった。しかしこの試みは、文学から自立性を奪って、単なる政治的なパンフレットをつくりあげてしまう危うさをはらんでいた。
賢治の創作の試みは、政治と離れたところで、文学によって現実を変える試みだった。ここがいちばんおもしろいところで、それが成功しているかどうかは、判断に迷うところだが、鶴見は、賢治は挫折したと評価する。ただし、柳田や柳よりも高い達成を示しているとみる。
人を愉しませるだけでなく、文学に何ができるか? これは、まともに文学と向き合っている者には、永遠の問いかけだろう。鶴見は、賢治の挫折した地点から出発することが、限界芸術の可能性を探ることだといっている。
『限界芸術論』は、ほかにも黒岩涙香の小伝やさまざまな大衆芸術などを取り上げたエッセーがあり、おもしろい。芸術を考えるには、必読の本といえるだろう。やはり、読んでよかった。
お勧めの本
『限界芸術論』(鶴見俊輔著/ちくま学芸文庫)