上地流はなぜ世界に広まったのか
戦後なぜ上地流は世界に広まったのか。沖縄に駐留していた米兵が母国に帰国し、そこから世界中に広まったと説明するのは高良信徳(前出)だ。
特にベトナム戦争時代、発進基地となった沖縄では、米兵が戦場から帰ってくると、暇をもてあましてできるだけ体を鍛えようとする風潮があり、空手道場に通ってきたという。米軍の部隊が各流派と契約して彼らに教えていた時代もあったという。
米兵の通訳として働いた経験を持つ友寄隆宏(前出)は、あるとき得意の英語を見込まれ、上地完英から普天間道場に通っていた通信部隊数人の指導を頼まれた。彼らにあとどのくらい沖縄にいるのかと聞くと、任期はあと1年という。熱心な生徒だったこともあり、1年間でどのくらい習得できるか限界に挑戦してみようと考えたと振り返る。
名前をジョージ・マットソンといったその生徒は、米国に帰国後、ボストンで大学生となり、友寄に指導されたとおり、友人数名に空手を教えることで、自らも空手を続けた。一週間に何日とかではありません。毎日365日、17時ごろ来て、20時半、21時まで家にいた。ふつうなら10年くらいかけてサンチンからサンセーリューまでやるところを1年間で教えました。私としては一つの実験でした。いよいよ帰国するというときに昇段審査を受けたら、沖縄の各道場から来た生徒の中で最高点を取りました。
やがてマットソンから空手を学んだ友人らの親が、「うちの息子は心も態度も一変した」と感謝するようになり、ボストンの一等地に道場を提供したいと申し出る篤志家がでてきた。
道場には医者や弁護士、警察官など、社会でそれなりの立場にある階層が集まり、マットソンが空手に関する著作を出版すると、ベストセラーになった。外国大使の子弟も増え、そこからさらにヨーロッパ各国に広まっていったという。
広がるための素材のよさもあった。
友寄によると、空手の稽古で腹筋が鍛えられ、お産が楽になるとの評判が広がり、女性にも広がったという。米国の生徒に産婦人科医がいて、科学的にそのことが証明されたらしい。
上地完文の3大高弟の一人、上原三郎(前出)の長男・上原武信(うえはら・たけのぶ 1930-)は和歌山で生まれ育ち、16歳で父親の故郷である沖縄に定住した人だが、上地流空手の長所について次のように語る。
上地流のサンチンは、剛柔流のそれとは息づかいが異なります。上地流の場合は吐くことに力点があって、吐けば自然と吸うという考え方です。シュッ、シュッと音を出しながら吐きますが、サンチンの歩行をしながらそうしているだけで、一切の雑念をなくし、無我の境地になっていく。精神的に非常に鍛えられる面があります。精神が強くなると、仕事でも好き嫌いがなくなる。子どもの立場なら、根性がついてくる。そうした効用に魅力が集まったのだろうと思います。
上地流の特徴に「肩を下げる」というものがある。高良信徳は上地完英から「空手は道場だけのものではない。道場だけでなく、生活の中に入れなさい。肩を下げて歩きなさい」と指導されたという。
友寄隆宏によると、身体操作として肩を下げることで肋骨(あばら骨)が“〝一枚板”〟になる効用があり、そうなると叩かれても蹴られてもびくともしない人体構造になるのだという。
蹴られた瞬間、突かれた瞬間に肩を下げることによって、全然痛まない。まったく違います。
そう語る友寄の身長は160センチほど。現代の感覚では小柄であっても、当時の沖縄人では平均に当たる。小さな人間が大きな人間を負かす空手の醍醐味はここにある。
完英先生も完文先生も私と同じくらいの身長でした。
流祖と2代目に接した多くの人たちが語るのは、2人に共通する人柄だ。「おとなしい」「無口」「寡黙」「人がいい」など、沖縄人の典型ともいえる純朴な人柄が浮かび上がる。
伝統を守る側の急先鋒に位置した過去
戦後の沖縄空手界を二分することになった1981年の国体問題。国体に参加するためには笹川良一(当時)が会長をつとめる全日本空手道連盟の傘下に入る必要があった。そのため沖縄伝統空手の変質を危惧する声が相次いだ。
沖縄空手は日本本土に渡り、その過程で、伝統の型が改変され、さらに競技化されたことで、本質とは似て非なるものに変わったと、沖縄の空手家たちには考えられていた。
このとき全空連参加に流派をあげて最も反対したのは、上地流であったかもしれない。少なくとも他の流派と異なり、全空連において上地流の型は指定型と認められておらず、型競技を見る限り、上地流にとってのメリットはどこにもなかった。
上地流は形式でなく、実質を重視する面もあった。実質とは空手の本来の意義である実戦(護身)のための空手を指す。
1977年に流派の教則本である上地完英監修『精説沖縄空手道』という分厚い書物が発刊されているが、実質的に編集を統括したのは高宮城だった。現在この本は稀少価値が生まれ、インターネット上で20万円前後の高額で売買されている。
話を戻すと、1981年からすでに40年近い歳月が流れ、今では上地流においても、全空連傘下の「沖縄県空手道連盟」に加盟し、競技を行う道場が増えてきた。
もともと伝統側の団体「全沖縄空手道連盟」の理事長をつとめながら、その後「沖縄県空手道連盟」に移籍し、現在、副会長の要職をつとめる新城清秀(前出)は次のように語る。
沖縄は空手発祥の地として、型に残されている伝統を保存・継承していかなければならない義務がある。一方で、スポーツとしての競技空手がある。次の時代を担う子どもたちが、国体とかオリンピックとかをめざす道がある。大きな舞台に立って、初めて人間が成長する面は否定できない。青少年への教育効果を考えると、競技としての空手を無視できるものではありません。
現在、沖縄空手界には4つの大きな団体があり、その4団体は歴代沖縄県知事が会長をつとめる「沖縄伝統空手道振興会」のもと、ゆるやかに統合されている。このことはすでに連載の中で何度も述べてきた。
前出の上原武信は、4つの団体に各流派が分散している現状に深い懸念を表明する。
どの団体にも、しょうりん流があり、剛柔流があり、上地流があるという混在した状況になっている。外国から見ると、何が何だかよくわからない状態だと思います。これから世界に沖縄伝統空手を本格的に広げようというときに、このままでは力が分散され、本当の力を発揮しにくい。沖縄空手の伝統がどこに宿っているのかと聞かれれば、あくまで『型』であり、それは各『流派』に宿っています。現状では流派内の意思疎通があまりにも少なく、今後は4つの親睦を目的とした団体とは別に、『流派』を統合し、一本化する動きを強めていかないと、沖縄空手は世界に広がらないのではないでしょうか。私はそのことを危惧します。
この問題は上地流に限った問題ではないかもしれないが、沖縄伝統空手の行く末を憂える上地流長老(県指定無形文化財保持者)の意見として、最後に付記させていただく。(文中敬称略)
【連載】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
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